「怠惰な生活」テサロニケの信徒への手紙二3章6~13節

中学時代、社会科の担当教師から、ある言葉を学んだ。「働かざる者、食うべからず」。この標語、政治的スローガンを世界的に広めたのは、旧ソビエト連邦の指導者、レーニンである。そして 1934 年ソ連憲法の中に,「働かざる者食うべからず」の原則が入ることになる。しかし、この理念は社会主義国家だけのものではなく、この国の憲法にも、国民の三大義務の内のひとつ「勤労の義務」が語られている。とはいえ、世界各国の現行の憲法等に、「勤労の義務」を明記している国は、極めて少ないのだという。

その後、神学校に入って、聖書の専門的学びをするようになって、実はこの言葉「働かざる者、食うべからず」の本当の出典が、レーニンではなく、聖書、テサロニケの信徒への手紙二の、今日のテキストであることを、知らされたのである。古代の文献としては、破格な情報量を持つ聖書であるから、さまざまな時代、さまざまな国や場所で、いろいろな聖句が縦横無尽に、半ば恣意的に引用されてきた歴史がある。最近の聖書学では、「影響史」と呼び、聖書のみ言葉が、良くも悪くも、歴史的にどのような影響を与え、どんなふうに力として働いてきたのかを考察しようとする取り組みがあるが、その中でも特に、この個所は教会以外の分野にも、強い影響を与えたと言えるだろう。

今日の聖書の個所に、6節「怠惰な生活」という言葉があり、これに呼応して10節「働きたくない者は、食べてはならない」と戒められている。レーニンの時代、この「働かざる者」とは,怠けている人も含むが,基本的には金持ちのことであった。私有財産をふんだんに蓄えて、働かなくても生活に困らないで、苦労せず日ごとの糧を得られるような金持ちや貴族等の特権階級はあるべきではない、という共産主義的原則なのである。それでは、現代のこの国に住む私たちは、この聖書の言葉をどう読み、どう理解するだろうか。

経済学者の井手英策氏(慶応大学)が、現代、この国に住む者の労働意識について、次のように分析している。  勤労し倹約し貯蓄しないと人間らしく生きていけない社会ですが,残念なことにこの社会を生きる人たちは,働くことを楽しんでいません。働くことをしんどいと思っています。国際社会調査プログラムで,「そう思う」又は「どちらかと言えばそう思う」と回答した割合の日本における順位は次のとおりです。・「私の仕事は失業の心配がない」40 位/41 カ国・「私の仕事は収入が多い」36 位/41 カ国・「仕事は面白い」39 位/41 カ国・「ストレスを感じる」3位/41 カ国・「就労の時間が決められており,勝手に変えられない」6位/41 カ国・「家の用事,個人的理由で1~2時間仕事を離れられる」39 位/41 カ国。つまり,失業の不安に怯えながらも収入が十分ではなく,しかも仕事はつまらなくストレスに溢れていて,働く時間すら自分の自由にはならない。家族の用事で1~2時間,仕事を離れることすらできないような状況で,大勢の人たちが働いているのです。働くことが楽しくて仕方がない人たちであれば,働いてない人を見ると,かわいそうと言うと思います。でも働くことを楽しめてない人たちが,働いていない人を見たら,「ふざけるな,怠けるな,サボるな,お前も働け」と思うのではないでしょうか。ここは,すごく大きな分かれ道だと思います(「頼り合える社会の構想 命と暮らしの保証、そして希望ある労働へ」)。

私たちは、決して「怠惰」に生きているとは思っていないだろう。成果が上がらなかったり、結果が出ないという事はあるだろうが。しかし、働くことを心から楽しめていない、働くことで喜びが生まれて来ない、という指摘についてはどう応えるか。決して「怠惰」ではなく、「健気」で「真面目」なのであるが、それゆえに、より弱い立場の人たちへの「裁き」となってしまっているとは言えないだろうか。

問題はこの「怠惰」という言葉自体にある。「働こうとしない者」というが、初代教会は、縦割り、横割りに、きっちりと分断された均質的な集団ではなかったのである。これは古代の集団としては稀有な構成であったと言えるだろう。教会の特徴は、現代でもそうだが、「種々雑多な人々の群れ」と評するのが一番ふさわしい。ある一定の社会階層や立場の人々で構成されていたなら、まとまりはよく、一枚岩のように、統一性は取れていたろう。もちろん、家庭を開放して集会を開けるくらいの資産家や会社の経営者、学者はいただろう。 他方、身寄りのないお年寄り、捨てられた子供、逃亡奴隷も教会の群れの一員であった。総じて金持ちとは言えない、どちらかと言えば貧しい部類に入る人々がほとんどで、職業を持ち、毎日の仕事に精を出しつつ、口を糊し、日曜日には教会に集っているというのが、実情だったろう。

だから「働こうとしない者」とは、教会のほんの一握りの金持ち、奴隷や召し使いに労働を全ておっかぶせて、自分自身は遊び暮らしている、そういう身分の人を指しているのではないだろう。そもそも「怠惰な生活」という言葉の翻訳が問題なのである。直訳すれば「無秩序に歩む者」という意味である。口語訳、新共同訳、協会共同訳はそろって「怠惰」と訳しているのだが、用語自体に「怠惰」という意味合いは薄い。文語訳は見事に直訳している「みだりに歩んでいる者」。「地に足のついていない生活をしている者」「ちぐはぐな生き方をする者」という風に訳せば、用語のニュアンスが生きるだろうか。

怠けているのではないとするなら、「働こうとしない者」はなぜ働かないのか。おそらく信仰の問題がここには強く反映しているのだろう。もうすぐ世の終わりが来る、終末がもたらされる。そんな切羽詰まったこの時期に、この世のことに一生懸命になってどうするのか。世俗のことに懸命になったとしても、この世がひっくり返ってしまえば、人の生きる努力はすべて水の泡である。それならば仕事になどかまけてなどいないで、祈りに精を出すべきだ、聖霊に満たされて、もっともっと篤い信心に精を出すべきだ、と極端な主張をする者たちが、少なからずいたのだろう。しかし信仰的熱心さは、世俗のすべてのことを手放して、捨ててしまうことを意味するのだろうか。

根本に考えておくべきは、「神のご計画は、人間の働き如何によらない」、ということである。ましてや人間の祈りが、宗教的な行為が、修行や精進が、神のみわざを左右することなどないのである。だから人間のできることは、今、自分の最善を生きるしかないのである。自分に何ができる、何ができないではないし、あの人は何ができる、何ができない、と自分と他人を見比べて、きょろきょろと生きることでもない。「落ち着いて仕事をしなさい」、「静かに働いておれ」。おそらく、静けさをもって、今日やるべきことに体と心を向ける、それこそが仕事をすることの本質なのだろう。

主イエスの生き方には、神の静けさが裏打ちされている。弟子たちと舟に乗って湖を渡る途上に大嵐に会い、弟子たちが助けを求めて騒ぎ立っている時に、ひとりぐっすりと眠られているのである。神もまた天地創造のみわざの中で、7日目には安息され休まれた。安息の静けさの中に、大いなるみわざの力が表されるのである。置かれたところで静かに、しかしやるべきことに向かう、それが主の働きの現実である。

こういう詩がある。

仕方がないと諦めるのではなく、人生の最善を尽くし、花のように咲くことです。咲くことは、幸せに生きることです。あなたが幸せになれば、他の人も幸せになります。あなたの笑顔が広がっていきます。あなたが幸せで、それをあなたが笑顔で示せば/他の人たちもそれがわかり、幸せになります。神はあなたを特別なところに植えたのです。もし、あなたが他の人たちと分かち合うことを知れば、あなたの人柄は輝きます。「輝く」ことを「咲く」というのです。神がわたしを置いた場所でわたしが花開くとき、わたしの人生は人生の庭で美しい花になるのです。置かれた場所で咲きなさい。(ラインホルド・ニーバー)。主イエスが「野の花を見よ」と教えられた意味の、ひとつの受け止めである。