「死の前の水わが手より飲みしこと飲ましめしことひとつかがやく」、長崎で被爆した歌人、竹山広氏の作品である。原爆に焼かれ、死を前にして、そこに偶々行き合わせた歌人が、今にも身罷ろうとする人、まだ年若い少女だったという、他ならぬ私の手からわずかな水を飲み、私もまた、生の終わりにひと掬いの水飲ませることができた、そのほんのわずかな時、刹那、それが原爆の地獄絵図の中で光り輝いている、と詠われている。竹山氏は、16歳にして石川啄木を知り、短歌に関心を寄せ、二十歳過ぎては短歌の会に所属、同人誌を出すなど、早くから作歌していた。25歳の時、肺を患って長崎市浦上の病院に入院中に、原爆に合い被爆された。5日の間、死者、負傷者の群がる地獄の市中をさまよい、上半身火傷の兄を看取り、生家に帰った。すぐに歌を作ろうとしたが被爆死した人々、傷つき苦しむ人々一人ひとりの顔が浮かび、夜も眠ることが出来ず、詠うことができず、以後十年の間、沈黙せざるを得なかったという。35歳の時、多量の喀血により入院、幸いにも新薬により死を免れ、その年から作歌を再開し、かつて夢に脅かされ作り得なかった原爆詠を作ったという。それが最初の歌集『とこしへの川』として世に出された。その中に収められている歌が、冒頭の作品である。ちなみに歌集に題された表題は、次の一首「くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川」から来ている。「わがとこしえの川」、私の魂から、決して消えることのない、深く刻み刻印された川がある、という。それぞれの人間には、ひとり一人、心の内に生命の川というべき、いのちの水の流れをもっているといえるだろう。その源流には、自分の生命を育んでくれた人があり、言葉があり、あるいは体験があるだろうが、皆さんにはそれがどのようなものとして、刻印されているだろうか。
聖書個所、コリントの信徒への手紙一13章は、パウロの手紙の中でも、最も有名で、最もよく読まれる個所である。もちろんこの手紙の中での嚆矢とも言える章句である。しばしば「愛の賛歌」と題されている。ところが聖書学的には難しい問題がある。まず前後の繋がりを遮断するように、割り込みをするように、この有名な「愛の歌」が挟まっている。さらに、この個所で用いられている言葉が、およそパウロが他では使わないような用語が沢山ちりばめられている。そもそも文体がパウロらしくないのである。そうかといって、著者が誰か他の人の文章を、そのままコピペしたような証拠もないし、教会で歌われていた讃美歌をそのまま引用したという風情でもない。しかも、ごく初期の写本にも今のような形で書き写されているから、益々不可解であり、今でも解けない聖書学の大きな謎のひとつとなっている。中には若かりし頃のパウロの宗教思想の習作である、と想像する向きもあるが、いかがだろうか。
1節「たとえ、人々の異言(言葉)、天使たちの異言(言葉)を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」。非常い印象的な章句から歌は始まる。「異言」とは文字通り「異なる言葉」、凡人には到底語れないような、神の使いのような人にしか口にできないすばらしい言葉、文学でも、読み手を思わず引き込む「珠玉」のような文章・文体があり、学問の世界に、常人の舌を巻かせる「高尚な、高邁な」学説というものがある。芸術の分野でも「天賦の才、神業あるいは悪魔の仕業か」かと思われるような演奏がある。素人には到底まねができない「当意即妙な返し」は、日々の弛まぬ努力や練達の賜物であるとも言える。しかし、この手紙の著者は言うのである。比類のない見事な「ことば」すらも、「もし愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル」。
パウロの滞在していた小アジア(現在のトルコ)は、古くから、今に至るまで良いシンバルの生産地である。口語訳聖書では、「鐘、鐃鉢」という訳語があてられていた。「どら」と訳されているが、これは青銅でできた大きな鉢のような鐘のことである。お寺には僧侶が読経をする席の傍らに、そんな鐘が置かれており、時折、読経の合間にゴーンと鳴らされる。また「シンバル」と訳されている語は、原文ギリシア語でもそのまま「キンバロン」であり、現在のシンバルとあまり変わらない楽器だったろうと考えられている。この二つの楽器は、ヘレニズム世界での神殿での礼拝で、じゃんじゃかごんごん、盛んに打ち鳴らされて、儀式が行われていたのである。なぜ派手に打ち鳴らされるかと言えば、神様が寝ていて祈りを聞いてくれないといけないから、ちゃんと目を覚ましてもらうためである。
音色のいい良いシンバルを作るためには、金属で大きなお皿を作るだけではだめで、幾度もハンマーで叩いて細かな窪みを造ることが欠かせない。作り方によっては、針金のような金属の線をとぐろに巻いて、叩いて板にするという製法もあるようだから、(音が回って出て来るとか言われる)おそらくパウロの滞在していた住居の隣近所で、トンテンカンテン、シンバルを作るために金属をたたく音がしょっちゅう響いていたのだろう。その毎日続く騒音に、使徒もイライラさせられていたのかもしれない。
さらにそれに続けて「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。「もし愛がなければ」、ただの「騒音」、「無」だ、「損失」だ。どんな素晴らしい学問も、芸術も、神学も、信仰も、奉仕も、自分の命を投げ出す自己犠牲すらも、もし「愛」がなければ「無だ」と断言的に言い切る所に、パウロらしさがあふれている。これはある意味では、人間の人生、生きる価値や意味に対する、最もラジカルな見解だろう。今、あなたの人生に「愛」はあるのか、そして今までのあなたに、その生きて来た道筋に、「愛」はあったのか。それだけが最後に問われ、計られることになる。
「もし愛がなければ」、すべてはゼロだ」、とパウロらしい極端な論理で歌は進められてゆく。そして7節「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」。愛はすべてであり、永遠であり、13節「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と語られるのである。そして私たちは、主イエスからこの愛を教えられ、愛に生きることを学び、この愛を食べ、直にふれて歩んでいるのである。ところが「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた」。主イエスの前に、私たちは幼子であった。ただ主の愛をひたすらに受けて、その愛を貪り、その愛を食べて成長し、「成人した今、幼子のことを棄てた」。とは言え、図体ばかりが大きく育って、幼子らしい無垢さを失ったのである。主イエスの愛をしっかり、はっきり、確かに心に抱いて、そこにしっかりと足を置いて生きているとは到底言えない、そんな人生の日々を過ごしている。12節「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」、主イエスと共に、その愛のまことにふれて、深く知ったはずなのに、おぼろげに写ったように、ぼんやりと見えるに過ぎない、のである。
竹山氏の人となりを語る文章がある。「竹山さんの故郷、長崎県北部の田平町も訪ねました。平戸の海を見下ろす高台の集落で、その中心に重要文化財の瀬戸山天主堂が建っています。隠れキリシタンを先祖に持つこの集落では、優秀な子どもは神父になるように育てられました。竹山さんも十二歳で長崎市の神学校に進んでいます。青年時代の竹山さんはオルガンと落語と手品が得意で、子どもたちを天主堂に集めては讃美歌やグレゴリオ聖歌をうたい、一緒に遊であげていたと、姪に当たる方にうかがいました。取材の合間、わたしは竹山さんに『なぜ神父にならなかったのか』聞いてみました。すると竹山さんはしずかに笑って 『神様に召されましたが、わたしは選ばれませんでした』と答えられました。 竹山さんは天命を問いつつ、歌を詠みつづけられた方たったのではないかと思います」(奥田亡羊「竹山広」)。そうして人生を歩んだひとりの信仰者が、原爆の地獄の中で、何を見たか、何を知らされたか、それが「死の前の水わが手より飲みしこと飲ましめしことひとつかがやく」という一瞬、刹那であった。ここにも、原爆の悲劇、惨劇もまた、キリストの愛と無縁ではなかった、ここにもキリストの生命の輝きが、残っていた、と歌人は心秘めて語っているのではないか。悲惨に飲み込まれる人間の現実に、主の御手がどう伸ばされるのか。
この「愛」を「キリスト」に読み替えて読み、理解したらよい、と言われる。信仰者にとって「愛」があるか、とは人間的なやさしさや思いやり、憐みのことをまず指しているのではない。「キリスト」と繋がっているか。自分の人生の日常のどこか、生活の何某かが、キリストに触れあっているか、キリストと共にあるか、そこにかかっている。拙い働き、手のわざの中で、それでもキリストからそれが出て、キリストに向かうなら、神はその拙さを、小ささを受け止め、大きく用いてくださるであろう。「愛は決して滅びない」、とパウロは言う、その「愛」そのものである「キリスト」に繋がっているなら、十字架の主、さらに復活の主と共に、永遠の生命に生きるであろう。「だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。主の愛によってもたらされる希望である。
