「その後,空は真っ黒になり,大気はイナゴの大群の翅が触れ合って起こす底深い唸るような音で満たされ,大地にはイナゴが舞い降りた。通り過ぎていった畑はそのままであったが,イナゴが降りた畑は食べ尽くされ,冬と同じように何もなくなった。男たちはため息をついて『天命さ』と言った」(パール・バック『大地』1931年)。
ヨエル書は1~2章、3~4章の2つの部分に区別され、それぞれ異なる時代に語られた預言が配置されている。前半は、いなごの害と干ばつによる飢饉が告げられ、後半は終末を告げる黙示文学的な記述である。今日の個所は前半の結論部分を形成する文学ユニットの一部である。
近年、マスコミによって、アフリカ、インド地域での深刻なイナゴの大発生が伝えられているが、アフリカでは、繁殖した農地に空からヘリコプターや飛行機などで殺虫剤を撒くか、あるいは、大群になる前に、幼虫の段階で駆除するという。ある年には5000億匹ほどのイナゴが駆除されたという。現在、人間は地球上に、約80億位の人がいる。そのざっと64倍ものイナゴを殺処分したことになる。数年前の推計によると、エチオピア、ケニア、ソマリアだけでも、2500万ヘクタール以上の耕地にイナゴの被害が出ている。日本の耕地は約444万ヘクタールだから、約5.6倍ということになる。イナゴに食糧を食い尽くされて、人間の食糧危機が起こるのは必至だし、生態系にも大きな影響があるといえるだろう。
なぜイナゴが大繁殖するのか。半砂漠地帯で大雨が降ると、爆発的な増殖が引き起こされる。好条件が満たされると、指数関数的に繁殖して増加する。ある世代から次の世代には、イナゴの数は3ヶ月で20倍、半年で400倍になる。孤立したイナゴは無害だが、一旦群集行動を起こすと行動を変えてしまう。そして、作物を荒廃させる巨大な大群を形成する。これがイエメンで起き、その後、大群はイラン、パキスタン、インドに広がり、同時にアラビア半島の他の地域や東アフリカにも広がっていったと言われている。
ヨエル書は、3章1節の文言が、使徒言行録2章の聖霊降臨日にまつわる預言として引用されている他、諸福音書、黙示録にも引用される等、初代教会にはなじみのある小預言書であったと思えるが、それはこの書が「主の日」について雄弁に語っているとの理解がその背景にはあるだろう。但し、ヨエル書は、成立年代の異なる伝承(捕囚前、後)がモザイク状にはめ込まれて現在の形になっていると思われるので、預言者自身の活動時期を特定することは困難であるが、「主の日」についての言及は、後の時代のものとしても。1~2章の預言において、激しい蝗害の有様が語られる部分は、古い時代に遡る預言かもしれない。
現代においても、アフリカやアジアの穀倉地帯で蝗による甚大な被害は、聖書の時代にもまったく同様に生じていたことを、ヨエル書から伺い知ることができる。1章4節にあるように、容赦なく田畑を荒廃させる蝗の生態を記した記述は、今に生きる私たちの背中を、寒からしめる迫力があるだろう。そして預言者はこれを、神の裁きのあらわれとして告知するのである。1章で告げられた蝗による災厄は、2章においてさらにリアルな比喩をもって展開される。3節「彼らの行く手を、火が焼き尽くし/彼らの後ろには燃える炎が続く。彼らの来る前、この国はエデンの園のようであった。彼らの去った後には、滅びの荒れ野が残る。何ものもこれを逃れえない」という描写は、中国においてパール・バックがその目で見て小説に記した悲惨な情景とほとんど一致する。6節「その前に、諸国の民はもだえ/どの顔も色を失う」とあるように、「男たちはため息をついて『天命さ』と言った」狂暴な蝗に対してなす術もない諦めの思いには、共通する調子があるだろう。
そもそもなぜ蝗(バッタ)が狂暴化するのか。彼らが狂暴化して大群を作るのは、「相変異(そうへんい)」と呼ばれる仕組みが起きるためだという。密集による物理的な刺激や、脳内のセロトニンという物質の増加が原因で、おとなしい性質から攻撃的で群れる性質へと体と行動がガラリと変わる。干ばつや大雨のあと、植物が枯れて限られたエサの場所にたくさんのバッタが無理やり集まると、おとなしく単独でいる状態(孤独相)から、他の仲間と一緒に群れて行動し、共食いもいとわない攻撃的な状態(群生相)となり、見た目の体色も地味な色から、黒や黄色などの目立つ色に変化し、羽や筋肉が長距離を飛ぶのに適した形に変わり、集団で何十キロも移動するようになるのだという。10節「その前に、地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う」これは聖書が世の破滅を語る時の常套表現である。
確かに人間の起こす戦争は、敵味方、どちらの国にも疲弊と荒廃とをもたらし、幾多の無辜の生命を奪うものであるが、自然の猛威は、それ以上に人間生活の営みを破壊し、破滅に追いやるのである。しかも、肝心の人間たちは、その危機の中で眠りこけるのである。1章5節の預言者の警句は、今の私たちの状況にも当てはまる痛烈な言葉である。「酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆、泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた」。
人間と蝗とは全く異なる生物である。しかし同じ星の生命体として生きている者同士、何らかの共通項をその生命の内に胚胎しているというのは、言い過ぎであろうか。とりわけ蝗が「無理やり集まると、おとなしく単独でいる状態(孤独相)から、他の仲間と一緒に群れて行動し、共食いもいとわない攻撃的な状態(群生相)となり」という性質の変化は、人間の社会の写し絵とも言えるような不気味さを漂わせているだろう。戦争は人を狂気にするとは言うものの、狂気をはらむ人間の典型的な行動パターンが、「戦争」を呼び覚ますということかもしれない。そして「狂気」は「酔いしれる」状態の中に密かに醸し出されて来るというのである。
それは12節「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け」と語る主のみ言葉に、端的に示されているだろう。即ち、主から遠く離れてしまい、人間だけで密に群れて、人間の数だけでその力を競い、数によって力を誇るようなあり方である。人が神を離れて、人間だけで群れる時に、そこに生じて来る「狂気」に対して抗う途は、ただ「立ち帰る」こと、即ち、主イエスの福音によって悔い改める、即ち、「方向転換」をすることであろう。
