「死者の中から」マルコによる福音書9章2~10節

季節の変わり目、最近は花粉症に春の訪れを覚える、という人も多いだろう。なぜか桜が咲くころになると、症状が治まる(スギ花粉が過ぎ越す)。季節ばかりでなく、体調の変化も著しいこの時期である。桜も開花しようかというこの週の聖日は、カトリック教会では「ばらの主日」と呼ばれる。受難節という主のご受難を憶える悲しみ、嘆きの時にも、否、その時にこそ、「福音」、喜びの知らせが告げられる、だから苦しみの中でも「喜び」を忘れてしまわないように、というのである。主イエスが告げ知らされたのは、「福音(喜びの音信)」なのだから。

こういう話を読んだ。「大病を患うと動揺する。家族や社会に面倒をかけ、生きる価値があるのかと自問する人も少なくない。大ヒットした米テレビドラマ『ドーソンズ・クリーク』の主演俳優、J・バン・ダー・ビークさんもそうだった。大腸がんと診断されたのは3年前の夏、46歳の時である。リンパ節への転移が確認され、翌年公表した。当時のインタビューで語っている。『時間の90%は診断と向き合うために使い、残りは恐怖で泣きじゃくっていました』。妻と6人の子を抱え、『あらゆる治療』を受けた。仕事はなくなり、医療費を捻出するためドラマ出演時の記念品をオークションにかけている。それでも回復しなかった。俳優、夫、父。誇りとした肩書をすべてはぎ取られる気がした。SNSの動画では、『子どもを寝かしつけられもしない。痩せ細った、弱々しい男がいるだけです。一体、私は何者なのか』と述べた」(2026/3/2付毎日新聞「余禄」)。人間とは勝手なもので、健康で元気であるのが当たり前で、「病気」になったら本来の自分を失うと思い込む。「すべてはぎ取られる」、日差し燦燦で光り輝くのが本来なのか、のどかな春の日もまた、春の嵐にかき消され大荒れとなることもしばしば、天気はさまざまであるのに。

今日はマルコ福音書9章からお話をする。先週、ペトロの「信仰告白」によって、初めて人間の口によって、ナザレのイエスへの信仰が、公に、はっきりと明らかにされる場面を読んだ。十字架と復活抜きの信仰告白、十字架から目を背けてしまうような信仰の言葉は、空しく虚偽であることが告げられたのである。今日の個所もまた、前節と密接に続く物語であり、同じことが再び語られる。9節「一同が山を下りるとき、イエスは『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに言われた」。ここでも再び「沈黙命令」が繰り返されるのである。どうもマルコの伝えるところによれば、主イエスへの「信仰告白」の行為は、皆で共に、声をそろえて大きな声で一斉に、という「朝礼で社訓を一同唱和」するような塩梅ではないようだ。

前節では、信仰告白を「行うこと」が問題にされた。十字架を見ずに、あるいは無視して、目を反らして告白をおこなうことは、初代教会でも大きな誘惑であった。使徒言行録の中に、パウロがアテナイのアレオパゴスで説教した時、暇を持て余していた市民が大勢、珍しがって彼の話を聞きに来た。そこで群衆を前に、彼はまともに主イエスの十字架と復活の出来事を人々に語ったのである。するとどうなったか。「そういう(与太)話は、いずれまた聞くことにする」と皆、立ち去ったのであるという。だから伝道のため、人集めのため、あえて十字架を語らずに説教する伝道者も多くいたのである。なぜなら「十字架」は、ローマでは、無法者、反逆者、強盗に課せられる刑罰であり、ユダヤでは神から呪われた者への仕打ち、「呪いのしるし」だったからである。どうしてそんなとんでもないはずれ者が、「キリスト、救い主」であるのか。

今日の個所では、さらに一歩進んで、そもそも「キリスト」とは何であるのかが、問題にされるのである。皆さんは「キリスト」という言葉を聞く時に、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。古今東西の画家たちが、様々に聖書の場面を絵に描いて、視覚化してくれている。私たちは、そういう目から入ってくる情報の影響を多分に受けるのだが、やはり根本では聖書の言葉を手掛かりに、ひとり「わたしのイエス」というイメージを心に描いて行くことになる。そしてさらに教会という共なる場で聖書を読み、信仰の友輩と語り合い、そのイメージを温め、豊かにしていくのである。そうしたらただの水も、いつかは芳醇なぶどう酒に変わるのである。主イエスはただの水を、良いぶどう酒に変えられる方である。主イエスにつながっていたら、私もいつかそうなるだろうという希望がある。

初代教会の時代、福音書が書かれた頃、人々は「キリスト」と聞くと、どんなイメージを思い浮かべただろうか。そもそも「キリスト」とは、抽象的な観念ではなく、明確な具体像を持った言葉だったのである。「キリスト」とはある特定の人物を指していた。誰か、それは「ローマ皇帝」である。人々は、ローマ皇帝が公に姿を現すと、口々に「我らのキリスト、わが救い主」と熱狂して呼びかけたのである。そのいで立ちはどのようであったか。「凱旋式の日、将軍はレガリア(王位の象徴)として月桂樹の冠をかぶり、金糸で刺繍した紫色のトガを着用した。これはその将軍が、半ば神聖で、君主に近い存在と認められていたためであり、その顔を赤く塗ることも知られている。凱旋将軍は4頭立ての戦車に乗り、非武装の兵士、捕虜、戦利品を従えてローマ市内を行進した」(weblio)とされる。

「顔を真っ赤に塗って」とは「太陽のように燃え輝く、偉大な神」の表象だというのだが、「赤い顔して誇らしげに凱旋する将軍」は、現代ならさしずめただの酔っ払いだが、当時の民衆は、酔っぱらったように熱狂したのである。それは皆さんのこころに描くキリストの姿であるか。しかし、当時の人々にとっては、「キリスト」とはそんな様子なのである。だからユダヤの田舎ナザレ村の大工のせがれで、十字架に付けられて死んだ、あのイエスが、どうして「キリスト、救い主」などと言えるのか、教会はそう問われたのである。

その応答として、今日読まれた聖書個所が語られた。主イエスは全く人の姿でこの世に生まれ、地上の世界を歩まれた。神のみ姿を隠されて、身を低くして生きられた。だから人々は公に、その栄光のみ姿を目に見ることはできなかった。しかし決して、神の栄光を失っておられたのではなく、ほんの極くわずかな弟子たちには、それを実際に示されたのである、と。「肉を纏った神の栄光は、卑近な肉体を通してもその栄光を外に表す」のであると。皆さんは今日のテキストの光景をどう受け止められるのか。

2節「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。ローマ皇帝が「赤」で勝負するなら、こちらは「白」だ、という訳ではないだろうが。皆さんは、真っ白にまばゆく輝く(洗濯物のようだが)「キリスト」が好きだろうか。この異様な光景を観たペトロは、何を言って良いか分からず、頓珍漢な言葉を発している。5節「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。しかしこれもまた一種の「信仰告白」なのである。そして、もしも十字架から目を反らして語るなら、その信仰告白はどうなるか、「仮小屋を作りましょう」程度なものとなり、教会もまた「仮小屋(まがいもの)」と化するであろう。まことの救い主のいます所にはなりえないのである。

7節「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。「雲」は神の臨在のしるしである。神のいます所には、必ず雲が沸き起こり、すべてを人の目から隠すのである。神は自らを隠される神である。それ程人間は見えるものに頼っているし、見えるものを信じているし、惑わされるのである。神は見えるものを隠される。先が見えないと人は恐れ、どうしたらいいか分からず、怖じまどうのである。しかし見えない雲の中にも、神はちゃんといてくださるのである。

最初の紹介した文章の続きをもう少し、「SNSの動画では、『子どもを寝かしつけられもしない。痩せ細った、弱々しい男がいるだけです。一体、私は何者なのか』と述べ(てい)た。家族や医療者による世話、治療は献身的だった。俳優仲間は募金のためにイベントを開いてくれた。肩書を抜きにして付き合ってくれる人たちばかりだった。たどり着いた答えがある。『人は存在しているだけで神の愛を受けるに値する。みんなそうなんです』」。

困難な病気を身に負って、目が開かれる、「人は存在しているだけで神の愛を受けるに値する。みんなそうなんです」、遥か高みに駆け上らなくても、地上でうごめくような生活の中で、何ができるできないにかかわらず、今、ここに、わたしに、あなたに神の愛は注がれているという。先行きの見えない、濃い雲の中に、このみ言葉が響くのである、「これはわたしの愛する子、(ただ)これに聞け」。「あなたはわたしの愛する子」主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから受洗した時に響いたみ言葉が、繰り返されている。神の、そのひとり子が、すぐ目の前に、私たちと共におられるのである。私たちと変わらぬ姿で。主は光り輝く神々しい姿など拒絶されるのだ。かえって山の下、下界、即ち私たちが生きるところ、日常、嘆き、呻き、涙するところにお出でになり、喜びの知らせを語られる。そしてその方は、山を下りられ、十字架へと歩まれるのである。「人は存在しているだけで神の愛を受けるに値する。みんなそうなんです」。これは主イエスの歩み、十字架への歩みそのものが告げている喜びの音信だろう。「あなたはわたしの愛する子」、このみ言葉を主イエスと共に、私たちも十字架の背後に聞くのである。