「知られざる神」使徒言行録17章22~34節

「歌は世につれ」と俗に言われるように、「歌」、はやり歌でも歌曲でも、賛美歌も、その時代の特徴を映す「鏡」であるといって良いだろう。最近、雑誌や新聞に投稿される「短歌」も、今の時代の反映なのだろうか、「マスク」を題材にした作品がよく目につく。いくつか紹介したい。

「表情を消してマスクは感情を鋭角にして社会を変える」、とある高校三年生の歌だが、今のわたしたちの生活への鋭い洞察力がある。マスクは顔半分を覆い隠す。それで、表情が読み取れなくなるから、感情ばかりが鋭くなって、この社会が、他人を赦せないように変わったのではないか。またある大学生の作品、「袋とじみたいにいずれ開きたい顔の下半分と未来を」(寺井奈緒美)。これは温かな心の吐露である。今は顔の半分をマスクで隠して生活をしている。まるで雑誌の袋とじのよう。袋とじの部分は、特集であったり目玉になる記事であるが、そのようにいつか、自分らしさをすべて表に出して、未来を切り開きたい。そんな日が間もなくやって来るはずだ。非常に健康的な感覚である。このような心で生きるなら、今の日常に耐えられるだろう。こうした歌を歌える若い人たちの、柔らかな感性のすごさを見るようである。

なるほどと感心した作品をひとつ。「マスクしていても変わらず笑いかけてくれる人の笑みを読み取る」(木塲紗弥)。マスクをしているから、今、目の前の人の表情すべてをつぶさに見ることができない。しかしマスクをしていても、以前と変わらずに自分に笑顔で接してくれる。その人の笑顔の全部を心でつかみ取ることが大切。この歌には「見えないものに目を注ぐ」という生きる姿勢が、生き生きと語られているのではないか。隠れていても、隠されていても、そこに変わらずにある「真実」を見つめようではないか。

さて、今日の聖書個所、使徒言行録17章の舞台は、アテネである。ギリシャ共和国の首都で、アッティカ半島の西側に位置している。前8世紀ごろに都市国家を形成、長く古代ギリシャ文化の中心地であった。パルテノン神殿などの古代遺跡が残るアクロポリスは、1987年、世界遺産(文化遺産)に登録された。古代のギリシャ語では、この町は「アテナイ」と呼ばれている。ソクラテス、プラトン、アリストテレスら滔々たる哲学者を輩出した町である。その由緒ある町の広場で、パウロが通りがかりの人々と議論し、ついにアレオパゴスで大演説を振るった、と伝えられる。

アレオパゴス、「アレオの丘」には、古からここに法廷あるいは評議会が置かれ,アテネ市の長老たちによって運営され,初期には政治上,宗教上の事件の詮議、後には刑事事件の法廷となっていた、と伝えられる。大勢の市民が集まり、何某かの演説が行われ、聴衆が議論をするのに、都合の良い場所だったのだろう。政治家や哲学者にとっての「檜舞台」とも言える場所で、パウロにとっても、これほどの大舞台での演説は、おそらく初めてであったろう。

彼がこんな大舞台で語る羽目になった理由を、ルカは19節以下に記している。「そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。』すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」。

アテネの人々は、とても「暇」であった。だから「暇」潰しになるような「新しいこと」をいつも欲していた、というのである。「暇つぶしに、いっちょう、この得体の知れぬ輩の話でも聴いてみようかい」というので、パウロをアレオパゴスに連れて行った次第である。こういうアテネ市民の生活をどう思うか。何もすることがなくて暇を持て余している、日常生活の細々したことは、みな奴隷がやってくれるだろう。「遊んで暮らせる」、皆さんは、こういう生活にあこがれるか。することがなく暇を持て余したアテネ市民は、そこで暇つぶしのために、「ある施設」を作ったことが知られている。ギリシャ語で「スコーレ」と呼ばれる場所、英語ならば「スクール(学校)」と称される場所である。その意味は実に「暇、余暇」である。パウロはアテネ市民の暇つぶしにされたのである。そして彼の演説は、どうやら不首尾に終わったらしい。32節「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。

ここでパウロが聴衆にどんな話をしたのか。そのあらましが今日のテキストから読み取れる。アテネにはたくさんの偶像があったという。神々を祀る祠のことである。市内に三千もの祠があり、ありとあらゆる神々が祀られている。祠を立てておけばよいのではない。それぞれの神々には、「縁日」、つまり祀るべき日月が定められており、その日には、花を手向け、犠牲を供しなければならない。そうしないと神々が怒って禍を下すかもしれないのだ。1年通じて三千の神々を祀るのである。一日当たり約10件に上る。その祀られた神々の中に、「知られざる神に」と刻まれた祠をパウロは見かけ、これに目を付ける。

パウロは「ミステリの神」と人々に語り始める。これは上手い口上である。「秘密にされ、隠されている事柄のまことを教えよう」、というのである。誰でも隠され覆われていることの真実を知りたいものだ。週刊誌などは、政治家のあるいは芸能人のゴシップ、隠されて伏せられている事実?なるものをネタに、巧みに記事を書く。

「知られざる神」パウロは、この文言を自分の信じる神を表現するのに、誠に都合が良い、と考えたようだ。確かに聖書の仕える神は、「神の像」を刻むことを厳しく禁じる神であり、即ち、「己を隠される神」なのである。人間の側からでは、人間の力では、決して知ることも、捉えることもできない神。それが聖書の告げている神である。「天と地の主」であり、「すべての人に、命と息と、すべてのものを与えてくださる」神なのだという。しかしそのように人間から遥かに遠い、超越した存在である神が、「探し求めさえすれば、見出すことができる、ひとり一人から遠く離れておいでにならない」のだというのである。

天と地と人間をはるかに超越、凌駕し、生命の根源であるような神が、人間が手を伸ばせば、すぐそこに、ひとり一人のすぐ近くに居られる、とは、「遠くにあって近くのものは」というような怪しい謎かけのように、文章としては論理が破綻している。しかし、主イエス・キリストにあって、この無茶苦茶な言葉は、真実となったのである。神の言葉、神の生命が、ひとりの人間となった。そして私たちと同様に、女から生まれ、この地上を生き、人々と共に歩み、十字架で血を流し亡くなられた。しかし神によって復活させられ、今は見えない霊として働かれている方、「探し求めさえすれば、見出すことができる、ひとり一人から遠く離れておいでにならない」主イエスが、ここにもおられる、とパウロは語るのである。

「物のあるべき姿」を「勿体(もったい)」といい、古くは「物体」と書いていた-と、ある辞書は「勿体」を説明している。それに「ない」が付けば「あるべき姿を失う」ことになる。転じて「もったいない」は「粗末にされ、無駄になって惜しい」という意味になったという。さらに「もったいないお言葉」のように「ありがたい」の語義もある。外国語に訳しにくいらしい。英訳を探しても「無駄な」という意味の単語しか見当たらない。ノーベル平和賞を受けたケニアの環境活動家で、没10年のワンガリ・マータイさんが広めようとしたのは言葉だけでなく、「惜しい」の心持ちだったに違いない。いま一度「もったいない」をかみしめる時なのだろう(5月25日付「水や空」)。

パウロの演説は、不首尾に終わった。多くの人々の心には届かなかったようである。「もったいない」ことである。しかし34節に「彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」とルカは伝えている。「知られざる神」は、人間の知らない所で、思ってもみない形で働かれる。手を伸ばせばそこに、おられ、私たちの祈りに答えてくださるのである。