祈祷会・聖書の学び 列王記下23章21~30節

琉球新報に、次のような記事が掲載されていた。「戦争に奪われた尊い命を思い、遺骨を今も探す人たちがいる。地上戦で多くの命が奪われた沖縄の地では、今も遺骨収集が続く。シベリアやハワイなどの抑留地でも探す活動もあり、行方が分からないままの人がいる。遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さん(67)は1人の骨の数に触れた上で強調した。『時間の経過とともに骨は崩れる。指や子どもの骨は小さく、どうしても見逃してしまう』。

沖縄戦戦没者の遺骨が多く見つかってきた糸満市米須で、土砂採掘が予定されている。業者は辺野古新基地への参入の意思を示す。遺骨が混じらない地層から使用する考えだが、具志堅さんは懐疑的な見方だ」(3月7日付『金口木舌』「戦没者は二度、殺される」)。

敗戦後70年を超えても、戦争の傷跡は決して消えてしまうことがないことを、伝える話題である。今なお、死者が丁重に葬られることなく、その遺骨が土に埋もれて、混在している可能性がある。そうした土を、建築用資材として基地建設のために利用しようとする。しかし、遺骨の有無が一番の問題ではなく、戦争という不条理な事態によって、無念の内に世を去ったたくさんの人々の、最後の足跡を留める場所の土を、軍事基地建設のために使おうというのである。ここには、かつての悲惨な戦争への想像力が恐ろしく欠如している。「記憶の風化」の最たるものであるだろう。

さて、今日の聖書の個所は、「ヨシヤ王の宗教改革」を伝える記事である。列王記を記述した史家の目から、この王は「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」(22章2節)と評され、さらに「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(23章25節)と評されている。イスラエル・ユダの王たちの中で、ヨシヤほど最大限の賛辞を付与されている王はいない。

この評判の高い王は、前 640頃~609年まで 8歳にして即位し 31年もの間、南王国ユダを治めたとされる。彼はつとに「宗教改革」を行った人物として知られるが、別名「申命記改革」と呼ばれる徹底した改革を行なった。その発端は,前 622年エルサレム神殿の改修工事中に、大祭司ヒルキヤが律法の書を発見したことに始まるとされる。彼はこの契約の書の言葉を、ユダとエルサレムのすべての民,祭司,預言者たちの前で読上げ,主ヤーウェの前に契約を立て,主に従って歩み,心を尽し精神を尽して主の戒めと,あかしと,定めとを守り,この書物に記されている契約の言葉を行うことを誓った。さらに異教の礼拝所、聖所を廃止し,「ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した」(23章24節)と伝えられるように、異教的な習俗をことごとく禁じ、主ヤーウェを礼拝すべき場所を、エルサレム神殿ただひとつに集中したのである。

その改革がいかに徹底したものであったかは、23章16節以下に記される逸話、見方によってはかなりグロテスクな措置を取ったことからも知れる。16節「ヨシヤは振り向いて、山に墓があるのを見、その墓の骨を取りにやり、その骨を祭壇の上で焼いて祭壇を汚した」。

古代人の感覚では、死体(遺骨)は「死」を纏うがゆえに、大きな負の力を宿し、神聖な場所に据えることは、その神聖さを損なう呪力となるのである。だから葬られた遺骨を白日の下にさらすという行為は、通常は禁忌とされる。しかしヨシヤ王は、ためらうことなく異教の聖所に対して、「冒涜」的な振る舞いを行ったのは、宗教改革を断行した王の胆力の強さであると同時に、この「改革」がいかに徹底したものであったかが読み取れるのである。

但し、いくら古代の感覚とはいえ、墓を掘り返し、埋葬された死者たちの遺骨を取り出し、わが目的のために利用するという行為は、やはり違和感を禁じ得ない。人間はひとり一人、他者と決して比べることの出来ないその人だけの人生を歩み、定められた地上での生涯の歩みを終えて、この世から去るのである。まして戦争という悲惨の中での不条理な死であるならば、そっと静かに魂の平安を祈るのが、当然ではないか。ヨシヤ王の振る舞いは、豪胆ではあろうが、人の情という面から見たら、違和感を感ぜざるを得ない。現代の沖縄においてもそうである。

この胆力は、もちろんこの王の資質から生じているのだろうが、僅か8歳にして即位し、31年間という長期にわたる統治の背後に、幼い時から彼を養育し、教育を施し、方向付けたグループが存在したことが伺われる。彼らは「申命記」な価値観を持つ人々、即ち、ヤーウェ主義的色彩の強い、異教排斥者であり、イスラエル信仰の純粋さを追求する人々であり、彼らの思想の集大成こそ「申命記」であって、ヨシヤ王もこれを教科書のようにインスパイアされて成長したのであろう。神殿改修中での「律法の書」発見もまた、このグループによって、密かに仕組まれた筋書きであっただろう。

しかし、今日の聖書個所では、こう記される27節「主は言われる『わたしはイスラエルを退けたようにユダもわたしの前から退け、わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの神殿もわたしは忌み嫌う』」と語られるのである。人物評とは裏腹に、ヨシヤ王が行った「宗教改革」プロジェクト自体に対する評価が、ここに意味されているだろう。列王記歴史家は、「この神殿を忌み嫌う」とまで言う、この主の拒絶を、「マナセの引き起こした主のすべての憤り」に帰結させているが、どうであろう。歴代の王も為し得なかったヨシヤ王の、熱意溢れる政策は、迅速で徹底した改革であったことは間違いはない。しかし何かがちぐはぐであったのではないか。

ベテルの聖所を前にした王の、野蛮な振る舞いと呼応するように、ヨシヤの最期が伝えれている。アッシリアを攻め上るために軍勢を進めてきたエジプト王ネコに対し、これを迎え撃とうとして、ヨシヤはあっけなく殺されることとなった、というのである。ヨシヤはあえてネコと一戦交える必要はなかった。端からユダ王国などに興味はないのである。無暗に他人のネコに手を出せば、引っかかれ、噛みつかれる。ヨシヤは自分の国に土足で入って来るようなエジプト王が許せなかった。つまり持ち前のこの王の胆力、性急さが裏目に出たのである。ヨシヤの後、「宗教改革」はなし崩しになったように見える。真実の悔い改めは、制度や組織、見えるものにはよらないということであろうか。