祈祷会・聖書の学び エゼキエル書2章3~3章11節

1925年に製作されたアメリカ映画に『黄金狂時代』(原題:The Gold Rush)という作品がある。往年の喜劇王チャールズ・チャップリンが監督・脚本・主演、すべてを務めた映画であり、彼の作品の中でも、特に傑作と呼ばれている。映画のストーリーだが、飢えや孤独などに翻弄されながら、黄金を求めて狂奔する人々を、チャップリンならではのヒューマニズムとギャグで面白おかしく描いている。中でも、空腹のあまりに、主人公が仲間の靴を茹でて、靴底の釘を鶏肉の骨のようにしゃぶり、靴ひもをスパゲティのように食べるシーンや、ロールパンにフォークを刺して足に見立てて、ダンスを披露するシーンなどが有名である。

「黄金」を手に入れることしか眼中になく、およそそれ以外の人間的な事柄を放棄してしまっているような有様は、ただ経済活動だけに奔走する、現代人へのカリカチュア(戯画)となっているだろう。そしてその「黄金狂」の中で、人間らしさの証明が、あの「靴を食べる」という、悲惨で滑稽な設定には間違いないのだが、同時に、どこか安らぎをも感じさせるシーンなのである。何となく、「実は靴は美味しいのではないか」と観客に思わせるような、見事な役者の演技である。

今日の聖書個所は、預言者エゼキエルの「召命記事」と呼ばれる部分である。旧約の預言者は、出自や出身、身分や職業等、それぞれが違った背景を持っているが、例外なく神から召命を受けて、預言者として立てられた者達である。預言書中には、しばしば当の預言者が、どのように神から召されたのか、その詳細を記しているが、一様ではなくそれぞれ独自の体験を経て、預言者になったことが知れる。とはいえ共通項がない訳ではない。

ひとつに、「自分の意志ではないこと(時には自分の意志に反して)」、そして「思いがけなく」、真正の預言者は皆そうである。

しかし、エゼキエルの場合は、状況が非常に変わっている。召命に際して、自分を預言者として召し出そうとする神の姿を、極めて風変わりで奇妙な幻として見るのである。おそらくその幻の形状は、神の属性や権能についての観念を、あくまでも言葉を用いて絵画的に描こうと試みたものであろう。さらに召命の呼びかけの言葉の内容も、奇妙であると言えるだろう。

3章1節以下「『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、 言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。

神は彼に、み言葉が記された巻物、つまり「律法の書」を食べて、腹を満たせというのである。するとその巻物は、「口に甘かった」と語られる。当時の巻物は、大抵「羊皮紙」に記されていた。エゼキエルは捕囚期の預言者であり、自らも捕囚のひとりとしてバビロンに連れて行かれ、その異教の地で、捕囚の民ユダの人々に働きかけた人物である。そしてこの「捕囚」という体験が、ユダの人々をして、いわゆる「旧約聖書」成立への機縁となったと考えられている。即ち、まだまだその構成は流動的だったと思われるが、文字化され巻物に固定化される道が開かれたのである。祖国を失い神殿を失った人々にとって、それに代わるものは、言葉としての祖国、言葉という形の神殿だったのである。

映画「黄金狂時代」の中で、空腹に耐えかねたチャーリーは、ディナーでも味わうようにおいしそうに?「革靴」を食するが、「巻物」はどうであろうか、果たして「蜜のように口に甘い」物であろうか。詩119編103節には、こう記されている「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。」一説にこの文言は、律法を学ぶ子どもに対しての言及だとも説明されている。古代ユダヤの教育は、律法を覚えることに終始するが、学びのプロセスにいくつかのグレードを設定して、それをひとつずつクリアーする毎に、ご褒美として、クッキーに蜂蜜を塗って子どもに食べさせた、というのである。しかもご丁寧に、その菓子には律法の文言が記されており、文字通り「み言葉を食べる」経験をさせたのだという。子どもは自分が学んでいるみ言葉は、文字通り口に甘く、おいしく、快いものだ、と心に刷り込まれる。

「巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」という主の示しは、エゼキエルに幼い時、律法を学んでいた頃のことを思い起こさせたであろうし、「それを食べると、それは蜜のように口に甘かった」という彼の思いも、幼少期のなつかしい思い出と絡まって沸き起こって来たものではなかったか。エルサレムでたくさんの子ども達と共に座って、先生の教えに耳を傾けた。先生の語る通りに、律法の言葉をおうむ返しにして、繰り返し覚えていく。目標の個所まで憶えれば、ご褒美のクッキーが待っている。何と懐かしく慈しみと恵みに満ちて、成長を育まれた時だったであろうか。エゼキエルは鮮やかに思い起こしたに違いない。

ユダの民は「反逆の民」であると神は告げる。「反逆」とは、神に反抗し、歯向かい、刃を向けるという暴力的な印象を受けるが、恵みを忘れて自分勝手に歩もうとするという方が適切であろう。丁度、主イエスがたとえ話で語られた「放蕩息子」のようである。彼は父の庇護に背を向け、自分の道を歩もうとした。確かに子どもはいつまでも親の掌中に留まることなく、自身の道を歩み始めるであろう。その道程で過ちを犯し、挫折を味わい、立ち往生することもあるだろう。その時に、かつての幼い時に育まれた恵みに、思いをはせるならば、方向転換することもできるだろう。即ち「悔い改め」である。ところがつらい現実に押しつぶされて、「幼い時の恵み」にまったく凍路を開くことが出来なくなったなら、私たちは帰るべきところ、帰るべき術を失うのである。幼少の頃の虐待は、子どもに帰るべきところ、その術を奪うことで、人間の未来を奪う最も野蛮な罪となるであろう。

エゼキエルが神から託された務めは、未来を失っている捕囚の民に、「幼い時の恵み」を思い起こさせる事柄であった。「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。」この幼い頃の恵みが思い起こされた時、恵みの場所への道が見えて来るであろうし、そこに向かって歩む力をも、与えられるであろう。「反逆」とは神が共におられながら、無力感に沈むことである。私たちは「非力」ではあっても、「無力」ではない。