「神からのメシア」ルカによる福音書9章18~27節

随分まえのこと、子どもが幼稚園でお世話になっている頃、父親である私も、行事の手
助けに駆り出されることがあった。ある時のバザーで、「ヨーヨー(水風船)制作・販売
係」に任じられたとことがある。格別難しいことはない、ポンプで水を入れた風船を膨ら
ませて、ゴムの糸を巻き付ける口を縛る、それをビニールプールに浮かべる。それだけの
簡単な作業であるが、数百個ともなると結構な時間がかかる。作業をしていると幼稚園の
子どもが、多く集まって来て、珍しそうに仕事の様子をじっと見ている。しばらく見てい
た子どもが言う「おじさん、うまいね」、こんなことでも尊敬されるから有難い。さらに
尋ねてくる「どこから来たん?」。
小さな子どもは、見知らぬ人が、自分に興味や関心のあることをしていると、つまり自
分と何らかの関係があると思うと、しばしば「どこから来たのか」と聞くことが多い。大
人なら「名前」を尋ねるところなのだろうが、こどもは「どこから」と聞く。これは面白
いと思う。「わざわざこのために、自分のためにやって来てくれた」そんな人へのうれし
い気持ちの表明なのだろう。
今日は先ずひとつの「絵画」を見ていただこう。こう題されている。《我々はどこから
来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》。この作品は、フランスの画家ポール・
ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin、1848年6月7日 ~1903年5月8日)の手になるも
ので、フランスのポスト印象派の画家の代表作とも言われる。彼が1897年から翌年にかけ
て、タヒチ島にて制作した油絵作品である。このタイトルは絵の左上に書かれている。現
在この作品はアメリカボストンのボストン美術館にて所蔵されている。
ゴーギャンは11歳から16歳の頃、カトリックの寄宿学校に学んでいたが、授業の中に「
カテキズム(教理問答)」があり、少年は教師である主教からその授業を受けた。「教理
問答」とはその名の通り、「問」と「答え」からできており、古くからの教会の信仰教育
方法だった。今も「発問」が教育の重要な方法とされている。少年は、その時になされた
「3つの問い」に深く心が捕らえられたようなのである。その3つの問いとは「人はどこ
から来たのか」、「人はどこへ行くのか」そして「人はどのように歩むのか」である。
この作品には、右から左へと順に、3つの問いに関する答えが隠されている。一番右側
に描かれている三人の女性と子供は、生命のはじまりを象徴しており、真ん中の人たちは
人間の若い成人期を象徴している。最後に、絵の左側に描かれている年配の女性は、人生
の終わりを意味している。そして背後には、青い偶像の彫刻が立って、その人生行路、一
生の経緯のすべてを見下ろしているかのようである。人間の生命を超える、“何ものか”の
象徴なのだろうか。
今日の聖書個所は、「ペトロ、信仰を言い表す」と題されているように、弟子たちの「
信仰告白」の場面である。「弟子たちの宣教派遣」、「ヘロデの戸惑い」、「五千人の給
食」、「受難予告」、そして「山上の変貌」という一連の文脈の流れの真ん中に、「信仰
告白」がはめ込まれているという文学構造をしている。弟子たちの宣教によって、ナザレ
のイエスのみ言葉が語られる。実際に教会の活動にふれて、人は宣教の言葉を聞き、共に
飲み食いし、癒され、その働きをつぶさに知ることとなる。自分たちの間におられるナザ
レのイエスは、十字架に釘付けられ、そして3日目に復活されたのだという。するとその
話を聞いて、人々はかの人について、戸惑い、ゆり動かされる、即ち、共感や不信や混乱
を覚える。そこで問われる、「あなたはこの方をだれと言うのか」。初めから教会はその
ようなあり方を取って来たのである。
共観福音書で、それぞれの記者は、ペトロに、それぞれの「告白」を語らせている。も
っともシンプルなのは、当然、最初の福音書記者マルコで、「あなたはメシアです」とい
う風に、単純明快に答えている。マタイは最も仰々しく「あなたこそ生ける神の子、メシ
アです」という具合。では私たちが今日、目にしているルカはどうかと言えば「神からの

メシアです」。この信仰告白の言葉自体にも、それぞれの福音書記者の個性が滲んでいる
。新共同訳の翻訳の問題として、「メシア」という用語を用いたことが上げられる。旧約
以来のキイワードである「メシア」は、元来「油注がれた者」、大祭司や王がその任に着
く時に、頭に香油を注がれて即位することによる。そこから神に立てられた救い主、イス
ラエルの指導者を象徴的に意味するようになった。
この「メシア」というヘブライ語が、ギリシャ語に翻訳される際に、「キリスト」とい
う訳語があてられることとなった。このギリシャ語は本来、「ローマ皇帝」への尊称であ
って、ヘブライ的なメシアとは、無関係な用語であった。すると共同訳のように「メシア
」と訳してしまうと、初代教会の人々の信仰の表明、「真のキリストとは、ローマ皇帝で
はなく、ナザレのイエスである」という主張を弱めてしまうことになるだろうとも指摘さ
れる。
ともあれ、「メシア・キリスト」という告白が、初代教会での最初の信仰告白の言葉だ
ったことは、明らかである。今も教会はそれをそのまま受け継いで、「イエス・キリスト
」つまり、「イエスは救い主」という言い方を続けているのである。それは決して、苗字
と名前ということではない。但し、ルカは、マタイのように「生ける神の子」というよう
な但し書きは付けないにしても、マルコのように「キリスト」というだけでは、余りにそ
っけないと考えたのだろう。「神からのメシア」という表現を用いたのである。
原文では、「神のメシア」という単純な言い方で、「からの」という意味合いは殊更込
められていないと言える。やはりルカは厳密に考えたのだろう。古代ユダヤならば、王や
差大祭司は神によって任命され、即位する。ところがローマでは、元老院が推挙した皇帝
が人々の前に姿を見せて、熱狂的な民衆の指示によって、「神の子、救い主、キリスト」
と称えられ、人々の上に君臨し権力を振るう。
しかし、私たちの主、まことのキリストは、そうではない、ただ「神のキリスト」、つ
まり人間は指一本、手出しすることも、何も間に入ることもできない、ただ神の立てた、
神と等しいキリストこそが、ナザレのイエスなのだというのである。「何も足さない、何
も引かない」キリスト、ここにも細かいながらルカの強いこだわりがあるだろう。
この世に今、人々から「キリスト」と称えられる「ローマ皇帝」がいる、彼は、嘘を尽
くし、大言壮語も吐くし、流血を好み、この世の権力と富を、すべて手に入れることに汲
々とし、己の満足とプライドにしがみつく輩ばかりである。そういう人間を目の前にして
、人々は「キリスト」だという。ではあのナザレのイエス、「人の子は必ず多くの苦しみ
を受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」、あの
方をあなたは誰だというのか。ルカは言う「神のキリスト」、彼こそまことの神の救い主

人々から捨てられ十字架に付けられ、血を流し死んで行かれた方を、「わたしの主、救
い主」と告白する者に「主イエスは言われる「イエスは皆に言われた。『わたしについて
来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」。こ
こにも、ルカ流の小さなこだわりが込められている。「日々」「毎日毎日」という小さな
、ささやかな言葉を挿入していることである。
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》ゴーギャンの絵画で
はないが、人は同じところで生きていても、全く同じ生き方をずっと続けるわけではない
。今日という日は、昨日と繋がっていて、同じような一日だと感じ、ずっとそれが続くよ
うに思い込んでいる。ところがその毎日に「生老病死」は入り込んでくるし、更に思って
もみないまさかの人生の土台を覆すような、揺さぶりや問いかけもなされて来る。かつて
少年だった日に、ゴーギャンが司祭から問われた問いは、彼の心にずっと残り続けたのだ
ろう。それに答えが見つかったかどうか、その心の底は余人には見えないにしても、何ら
かの変化も起こったことであろう。
今日は3月12日である。あの東日本大震災から12年を経た。終わりのない旅の様でも

あるが、一つの節目であろう。こんな文章を読んだ。ふるさとがガレキに埋め尽くされた
あの日から、12年過ぎた。取材を続ける中で、もう「被災者」ではないと出演を断る人も
増えた。一方で、「忘れてほしくない」と訴える人もいる。10年経ったからようやく話せ
るようになったという人もいる。しかし未だ、大切な人を亡くした悲しみが癒えない人た
ちもいる。こんなインタビューが映し出された。岩手・宮古市の佐々木雅子さん。地元紙
の元新聞記者である。夫婦で勤めていた支局を津波が襲い、夫は目の前で流され、亡くな
ったという。「今でも一人では行けない。ここで主人が流されたという気持ちがあるせい
か、一人で行くのは…」。「一人ではいけない」そう語りつつ、このように言葉を続けて
いる。「朝は必ず来ます 毎日が夜ではない!」「今これを乗り越えれば、どこか針穴か
ら明るい光が入ってくる。そう思いながら、ひとつずつちょっとずつ、やってきました
」。「日々、自分の十字架を負って」ということだろう。それは真っ暗闇を闇雲に手探り
することではない。
主イエスは言われる「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真
実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ
。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(ヨハネ
による福音書 8章14節)たとえ来し方行く末は分からないにしても、そこには十字架を負
う主イエスの背中がある。それが先に進んで行かれる。そしてその主は「自分がどこから
来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている」と言われるのである。