祈祷会・聖書の学び サムエル記下12章1~15節

「起きて半畳、寝て一畳、いくら食っても二合半」という言葉のように、人間ひとりの
力というものは、どれ程、有能で優秀な人であっても、たかが知れている。やはり人間は
共に生きる生き物であり、支え支えられて、初めて生きることができる、と言えるだろう
。但し、「カリスマ」(天賦の才)ある人は、自分の身近な周囲に、自分の働きを助ける
有為の人々を集めることができる力を持っている場合が多い。
主イエスもまた、公生涯のはじめ、宣教活動の開始にあたって、ひとりの力で働こうと
はされなかった。共にこれからの宣教活動を担う同労者たち、即ち「弟子たち」(過分に
理念的な十二人の弟子)を選ばれたことが伝えられている。ところが、弟子となった人々
は、自分から望んで、主イエスのもとにやって来て、弟子になることを願った訳ではなか
った。最初の弟子たちは、ガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちであり、主イエスご自身の
方から、声を掛けられ、行動を共にするようになったのである。
しかし、主がどのように考えて、彼らを選んだのか、今の私たちの目からするといささ
か奇妙に映る。「漁師」が悪いというのではない、当の相手は「岩」、や「雷の子ら」と
あだ名された(しかも主ご自身がそう呼ばれたのだという)人物なのである。おそらく個
性、や特徴を踏まえての命名だろうから、一癖二癖ありそうな輩ではある。選ばれた他の
人物たちにせよ、「ゼロータイ」やら「イスカリオテ」やら、何やら物騒に思われる連中
も交じっている。この選び方の意図は、一体どこにあるのか。ところが主イエスの十字架
と復活の出来事の後、一応は、彼らが「主だった者たち」となって「エクレシア(教会
)」が誕生し、活動を始め、世界に宣教活動がなされて行くのも、事実なのである。やは
り主の目は、私たちを超えていることだけは間違いはないだろう。
さて、今日の聖書個所は、ダビデのブレーンのひとり、最も身近にいて、王の働きを支
えた預言者ナタンとダビデのやり取りを描いているテキストで、「王位継承史」の中でも
特筆すべきトピックスを記す部分である。ダビデは優れた資質を持つ魅力的な人物である
が、彼を支える有為の人々にも、多く恵まれた者でもあった。実甥で、王国の軍事顧問を
務めた将軍ヨアブはじめ、彼を守るために身を挺して共に戦った「37勇士」の名が、サム
エル記下23章には記されている。そのような軍事的な戦友ばかりでなく、政策上の助言や
介助をした宮廷の人物も、数多あったことであろう。
その中で特筆すべき人物が、預言者ナタンである。彼は、ダビデの王宮に自由に出入り
し、王ダビデと対面して言葉を直に交わした側近中の側近であった。サムエル記における
彼とダビデとのやり取りを読んでいると、ナタンは王の言葉を傾聴するカウンセラー的な
役割を果たしていることが伺える。つまり、王国時代には、宮廷に仕える預言者がおり、
彼らが王の相談役となって、政策上の審議に加わっていたことが、想像されるのである。
政策上の原案は宮廷の官僚が作成するにせよ、決定は王が行うにせよ、それが「神のみこ
ころ」に適うものであるかどうかが、イスラエルにとっては肝要だったのである。今でい
う「監査役」あるいは「相談役」、「顧問」というような肩書が付せられるかもしれない
が、ダビデの後継者決定を巡って、この預言者はかなり強引な政治的動きを展開している
節があるから、かなり特別な位置を得ていたと考えるのが妥当だろう。ナタンがそのよう
な立場に身を置くきっかけが、今日のこの聖書個所の背後にあると言えるだろう。
前章において、ダビデはいわゆる「バテセバ事件」と呼ばれるスキャンダルを引き起こ
してしまう。こともあろうに共に苦労してきた「37勇士」の内のひとりウリヤ、その妻、
バテセバをわがものとし、そればかりか不祥事を隠匿するため、ウリヤを戦の最前線で討
ち死にさせよとの密命を、腹心の配下ヨアブに下すのである。王の目論み通り、ウリヤは
あっけなく戦死し、合法的にその妻は、ダビデの宮廷に迎え入れられた。そこに神のみ言
葉を携えてナタンがやって来る。
ナタンの話しぶりは、見事である。何げなく、ありふれた世間話のように、王に「巷談

」めいた話を披露する。「近頃、こんな話を聞きましてね」という具合である。横暴な金
持ちが、貧しい人が大切に育てている、小さなかけがえのない子羊を、無慈悲にも力に任
せて奪い取る話である。巷ではままある事件かもしれない。この話に王はどう反応するの
か。「この世は弱肉強食の世界だ、力の強い者が勝つのがならいだ、悔しかったら、その
貧乏人も成り上がって、力を手にして仕返しをすればよかろう」とは決して言わない。
王は何と答えたか。5節「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。『主は生きてお
られる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈
悲なことをしたのだから』」。一国を預かり、正義と公正とを持って治めるべき王として
、手本とも言うべき見事な答弁である。ダビデはまさにこういう人間であり、こうした正
義感に満ちあふれた指導者なのである。ところが、王としての力量、資質や知恵に富んで
いた彼に、ひとつだけ分からなかったことがあった。それは何か。あからさまな自分自身
の姿、自分という人間のありのままの真実が、彼には全く見えていないのである。人間に
とって、誰でも例外ではなく、この問題から無関係の人はいないだろう。
7節「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。(中略)あなたはヘト
人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺した
のはあなただ。』あふれるほどの情熱を内に秘め、正義と公正の感覚に優れたダビデ程の
王であっても、自分自身の犯した深い、残虐な罪に思いめぐらすことができない。ちょっ
とした心のゆるみ、魔が差したとしか言えないようなあやまち、というかもしれないが、
それでこの世界でどれほどの無辜の生命が奪われていくことか。聖書の人間観は冷徹であ
る。理想の王とされ、いつの時にか再来すると信ぜられたメシアの元祖とされたダビデの
実像、醜聞を、聖書の歴史家は、ありのままに記そうとする。これが聖書文学の神髄なの
である。
ソクラテスが住んだ町、アテナイのデルフォイの神殿の扉には、こう記されていたと伝
えられている。「汝自身を知れ」。知ることが最も困難なのは、自分自身の事柄、だから
こそ、警句のように、こう記されているのである。この警句は、時代は変われど人間も変
われど、普遍の真理を語るものであろう。但し、ここが終着点ではない。ここから実にイ
スラエルの歴史は大きく展開しながら、再び始まるのである。