「聞いて悔い改めた」マタイによる福音書12章38~42節

新聞を読んでいて、こういう文章に出会った。この人は老いないのではないか。そんな気さえする女優の吉永小百合さんが対談で語った。どんなときに、もう若くないと感じたかと問われ、「涙が真っすぐに流れないで、横に走ったときです」。歌人の河野裕子さん(1946-2010年)が『横に走る涙』と題するエッセーの中で紹介している。河野さんは女優でなければできない表現と感心しながら「女性がうまく齢をとるということは、どういうことなのだろう。よけいな媚(こび)や甘えや身ぶりが抜けて、その人の人柄が洗い出されたように見えてくることなのかもしれない」と書いている(4月3日付有明抄)。

「目元の皺」と言ってしまえば、身もふたもないだろう。あえて「涙が横に流れるようになった時」、これはいわゆる「文学表現」であり、「物語、語り」なのであるが、どちらが私たちの心に理解や共感、共鳴を与えるか、といえば論を待たないであろう。こういう風に豊かで、時にかなった言葉を用いることができる人というのは、やはりその人の人生も、そういう質なのだろうと思う。「表現」や「語り」というものの、奥行きの深さを感じさせる。この一言から読み取れること、ご本人が言葉にしていない事柄にも、触れ得るのではないか。

今日はマタイ福音書12章からお話をする。「人々はしるしを求める」と題されている。律法学者とファリサイ派の人々が、イエスに「先生、しるしを見せてください」と求めたという。使徒パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を捜す」(コリント一1章22節)と喝破したが、時代を超えても、相変わらず人間は常に、この二つを求めているだろう。「しるし」とは、「証拠」とか「根拠」、最近、しばしば耳にする、「エビデンス」のことである、コロナをめぐって、その対策を云々するのに、専門家の医師が「エビデンス」という用語をしきりに口にするので、政治家もさかんにこの用語を用いて発言する。例えば「Go Toが感染拡大の主因というエビデンスはない」とか、「若年層で感染が大きく広がっているエビデンスはないが、そうでないと説明がつかない」等と語られる、ここでは「物的証拠」、数字で明らかに示される「根拠」のことを、「エビデンス」という言葉は指し示している。

「エビデンスはあるのか、それをきちんと見せてくれ」、今日の聖書個所で、主イエスはそのように問われたのである。エビデンスは、国会での討論を始めとして、現在、私たちが営んでいる生活の、合意を作る上での有力な手段、方法である。「あなたが神の子、キリストであるエビデンスを示せ」。確かにそう言いたくもなるか、「百聞は一見に如かず」であるから、「見た目が90%」とも語られる。「見たら信じよう」と人々が言うのももっともである。不可思議な、この世では説明できない、自然界ではありえない、驚くべき光景を見るなら、人はやすやすと信用するだろう。あるいはキリストであることの、具体的、数値的な証明がなされれば、すぐにも信じるに足るということだろう。エビデンスを重視するとは、通常の人間の価値観が良く表れている。

ところが問題は、神、キリストと私たちとの関りや繋がりは、そのような奇跡や超自然的なものを媒介にして、あるいは異常な出来事を目の当たりに見て、はじめて成り立つのだろうか。そういう異様なものがなければ、私たちは、神、キリストを救い主と信じることは出来ないのだろうか。自分の先生が、空中を浮遊して、それを目の前で見たから本当だ、確かだと信じるというのなら、空中に舞う「ちりやほこり」も、すべて「救い主」である。「エビデンスを見せてくれ」という問いかけに、主イエスが答えられたのは、「ヨナ」と「南の女王」というふたつの、当時の人々にとっては、最も馴染み深い、小さい頃に聞かされた一番懐かしい物語のことであった。これはどういうことか。主イエスは、何を言いたいのか。

マタイはここで、「ヨナのしるし」という主の言葉に、いささか当惑した雰囲気である。ヨナは反抗して、神の顔を避けて、神の指示した場所、ニネベと反対方向に逃亡した預言者である。そのおかげで海に投げ込まれて、大魚の腹の中で「三日三晩」の時を過した。そんなおとぎ話のような情景、マタイは、この故事を思い起こしたのか、「キリストの死と三日目の復活」の出来事こそが、「しるし」であると考えたようだ。十字架の死と復活を信じないでは、キリストを信じる信仰は空しい、というメッセージであると。

しかし、主イエスの言葉とよく読めば、必ずしも「三日三晩」が話の中心ではないことが分かる。ヨナの言葉を聞いて、悔い改めた「ニネベの人々」が立ち上がって、信なき者を罪に定める、と語り、さらに「南の女王」の故事が語られる。ソロモン王の知恵の見事さ、その噂を聞いたシバの女王は、件の王の高名な知恵を聞くために、はるばる南の国を後にして、ソロモンの下を訪れたと伝えられる。その「南の女王」が、不信の者たちを裁くだろうという。

ここで言及されているふたり、ヨナと南の女王に共通するのは、どちらも物語であり、語りであり、対話である。ヨナの物語には、この手前勝手な預言者と、彼を取り巻く人々、船に乗り合わせたお客や船員、そしてニネベの人々、さらに神との、ユーモアあふれるしゃれた芳醇な語りが、また機微に富んだ、生き生きした対話が記されている。また南の女王の物語には、禅問答のような難解な知恵比べを楽しむ、ふたりの駆け引きが、見事に映し出されている。つまり主イエスは人と人、神と人を繋ぐもの、その絆は、奇跡や超自然的なこと、この世にありうべからざるイリュージョンの中に、神秘的な出来事の中にあるのではなく、出会った目の前にある者との語りや対話、そこから紡ぎ出される日常の、当たり前の人々の心の物語の中にこそ、あるのだと主張しているのである。それを軽んじて、その他に「しるし、しるし、証拠、根拠」と物珍しいもの、奇異なものを求める思いに、釘を刺していると言えるだろう。

臨床心理士の藤井靖氏はこう語っている「エビデンスとは対極的な意味で使われる場合がある『ナラティブ』という言葉がある。元々の意味は、物語、語り口、対話といったことを示すが、エビデンスが数字を使った量的なデータに基づくのに対して、ナラティブは質的な情報に基づく分析(のことである)」。人間は人生の積み重ねの上に、自分についての物語を紡いで生きている。人が語る時に、どのような話題や内容であれ、無意識に自分の人生の物語を語っているのである。発せられる言葉から、その人自身が抱える問題や課題が見えてくる。それは決して数量的に還元できるものではないし、思い込みやこじつけや過誤も含まれているので、客観的に正しい、誤っていると評価し得るものでもない。しかしそこでしか出会えない人間の真実がある。ただ証拠、エビデンスだけを頼りにしていたら、随分、生きることはつまらないものになってしまうだろう。全部、見ればわかる、一目瞭然だとしたら、驚きも発見もない。

だからある医師は、自らの医療について、次のように心構えを語るのである。・患者が医療者の前ではどのような面を見せていないか,話していないかを知る。・患者は医療者の思いもよらないことを感じ、考えている場合があることに気づく。・語りを通して「一個の人間」としての患者に接することで,医療者として内省を深める。

但しこれらが、本当に人間に可能なことなのか、という素朴な疑問を抱く。但し、神のなされることは、正にこのようであるだろう。人の前に(自分も含めて)、見せていない、話していない、見せられない面を深く知って下さり、他人には思いもよらない、想像だにしない、わたしの思いや考えを知ってくださり、そこで私をかけがえのないひとりの人間として、捉えて下さる。それが主イエスと私たちとの繋がりである。

「聞いて悔い改める」とあるが、私たちがただ聞くのではない。私たちが聞くより先に、私たちの言葉を、わたしの物語を聴いてくださる主イエスがおられるから、主イエスの方に心を身体とを向ける(悔い改める)ことができるのだ。そこから新しい方向への歩みが生まれるのである。