創立45周年記念礼拝「必要に応じて」 使徒言行録4章32~37節

教会創立45周年を迎えたことを、心からお祝いしたい。教会HPに、その歩みが次のように記されている。「鶴川北教会は、1969年3月、鶴川の地において開かれた、日本キリスト教団・美竹教会の家庭集会から発足しました。翌1970年11月には礼拝が捧げられるようになり、1976年6月30日に牧野信次牧師のもと、日本キリスト教団の鶴川北伝道所として開設されました。1979年6月には、念願の会堂と牧師館が建てられ、1980年には鶴川北教会として認可されました。その後、鶴川の地において、キリスト教の福音信仰に立って今日まで歩んで来ました」。1969年の出来事や事件、何が思い起こされるか。「東名高速道路全通(5月)、テレビアニメ『サザエさん』放送開始(10月)、人類初の月面着陸(7月20日)、日本銀行が五百円札を発行、と枚挙に暇がない。

「1960年代も終わりに近づく頃、日本基督教団は大幅に揺れていた。大阪の万博キリスト教館、戦争責任告白、そして神学大官憲導入問題等々に、大きく意見が対立し、教団や東京教区の総会が開催できないような状態であった」。鶴川北教会『10年の歩み』誌の中に、この教会の最初期を担われた、ひとりの信仰の先達者が(もうすでに天国の住人となっておられるが)、その時の様子をつぶさに伝えてくれている。そのような時代の激しい波に、教会に属するひとり一人、皆が強くさらされたのである。「礼拝をともにし、説教を通じて信仰の糧をいただき新たな活力を得たいと願っていても、(牧師)先生のお話は私にはあまりに難しく理解できなかった。また、教会内が紛糾しているためか、私の信仰が薄らいだためか、説教もくいいるように聞くファイトもいつしか乏しくなり、長老であることももちろん、教会に連なることさえ重荷に感じ、自分も妻子もこれから信仰的に成長しなければいけないのに、このままで良いのかとの疑問を持った」。「話はあまりに難しく、くいいるように聞くファイトもいつしか乏しくなり」、旧約の預言者アモスは、「食物の飢饉でなく、み言葉の飢饉が送られる」と告げた。「み言葉に対する飢え渇きのために、元気な者も気を失う」というのである。そういう荒波の中で、小さな家庭集会、この教会の始まりが据えられたのである。しかし言葉を換えれば「み言葉の飢饉」こそが、この教会を産みだす原動力になった、のである。

 さて今日は使徒言行録4章32節以下からお話をするが、教団「日毎の糧」の聖書個所からなのだが、まさに「教会創立記念礼拝」にふさわしいテキストだと感じる。32節「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」。この記事から、社会経済学者のマックス・ウェーバーは、「原始共産制」の典拠であると主張した。現代の聖書学者たちは、「相互扶助に関わる個別的な伝承を、ルカが理想化、一般化して『全員』の生活の特徴として描き出したと思われる」と説明する。確かにこのテキストのすぐ後には、「土地の代金」を誤魔化し、過少申告して教会に捧げた夫婦の話やら、「食べ物の分配」への不平不満が、やもめたちから発せられた、というような、正反対の話も伝えられている。確かにここに生きて動いているのは人間であるから、大なり小なり、いろいろな問題を抱えて、時には転んだり、ぶつかったりしたろうが、何とか「相互扶助(助け合い)」によって、教会は拙いが、確実に一歩一歩の歩みを進めて行ったのであることは間違いない。そうでなければ、二千年経った今、世界に教会は存在していないであろう。

「相互扶助」の中身について、より詳しくルカは報告してくれている。34~35節「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。ここでまず「貧しい人がいなかった」という言葉に心が引かれる。かつて世界で最も貧しい大統領と呼ばれた南米ウルグアイのホセ・ムヒカ氏が、日本で講演した時に、こう語った。「誤解しないでほしいのですが、貧乏になるべきだとか、修道士のような厳格な生活をしなければいけないと言っているわけではありません。私が言いたいのは、富を求めるあまり絶望してはいけないということです。人生にはもっと大切なことがあります。愛情を育むこと、子供を育てること、友人を持つこと、そういう大切なことのためにこそ人生の時間を使ってほしい」。

35節後半に「その金は必要に応じて、おのおのに分配された」という文言が見える。「能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」という共産主義的プロパガンダを連想させるような言葉である。自発的に献げられたものが、必要に応じて分配されたというのだが、この「必要」という言葉は意訳であり、本来は「欠乏、欠け、乏しさ」という意味の用語である。教会の人々が、まず一番大切に、丹念に見ようとしたものが、何であったのかがこれで知れる。そして分かち合うことの本当の意味が、ここから理解されるのではないか。

 人間は誰しも、自分自身では満たすことの出来ない「欠け」や「欠乏」「乏しさ」を抱えて生きているものである。金銭やものだけが人の生命を支えているではない。ホセ・ムヒカ氏が、「富を求めるより、もっと大切なことがあります。人生の時間をそういうもののために使ってほしい」と語る所以である。生きとし生けるものは、自分の生命の中に、空虚を抱え、それを誰か他のものから、満たしてもらうしかないように、創られているらしい。だからルカがこのように初代教会の様子を伝える時に、初めに32節「信じる群れは、心も思いもひとつ」と語るにはちゃんと理由がある。「ひとつ」とは、皆が同じ意見で、異論や反対がなかった、というのではない。「ひとつ」とはちょうど、村の中央に水の湧き出す泉、ないし井戸がひとつあって、その水を必要に応じて、自由に汲んで飲むことができる、ということである。ひとり一人皆が、その水につながって生かされている。生命を支えるものだから、誰もその井戸を自分のものと言い張ることはないし、水が枯れてしまうような使い方、飲めなくなるように汚くすることもないだろう。欠乏、欠けが補われ、乏しさを覚える人がなくなる、貧しい人がいなくなるというのは、本来こういう事である。

 この「ひとつ」こそ、目には見えないが、確かに私たちと共に生きておられる主イエスである。私たちの欠乏や欠けは、主イエスによらなければ、満たされる術はない。主イエスが働いてくださるからこそ、教会には、「わが杯はあふれるなり」ということが起こるのである。

遠藤恵子姉が、30年誌にこう記している。教会のこれからの進むべき方向をも、深く心に留め、考えておられたことが、文章から知れる。「教会の建物その時々に必要とされて、プレハブを建てたり改造したりして現在に至っていますが、三十年を期に成熟した教会として、建物も先ず地震があっても倒壊しないように、教会にお客様がいらしても静かにお話ができるような一室が、お昼の食事ももう少し大勢の人が食卓を囲めるようなお部屋が欲しいと願い続けています」。これは地に足の着いた、教会の歩むべきヴィジョンである。教会はできることしかできない。しかし、将来に向けて、今、教会ができることは何かが、はっきりとつかみ取られており、教会は一歩ずつではあるが、そのように歩んできているのである。「地震があっても倒壊しないように」、「もう少し大勢の人が食卓を囲めるように」「豆お客様と静かにお話しできるような一室を」、これらの教会のこれからの姿を望み見て、静かに語っておられる。「成熟した教会」とはどういうものか、決して派手な形ではなく、着実にできることを探っておられるのである。