祈祷会・聖書の学び エゼキエル書32章17~32節

詩人、谷川俊太郎氏の詩『さようなら』。「ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない/どこへいくのかわからないけど/さくらなみきのしたをとおって/おおどおりをしんごうでわたって/いつもながめてるやまをめじるしに/ひとりでいかなきゃなんない/どうしてなのかしらないけど/おかあさんごめんなさい」。

皆さんは、この詩をどのように受け止められるだろうか。何らかの懐かしさを感じるだろうか。それとも寂しさだろうか。あるいは取り戻せない時間、過去についての悔恨だろうか。この作品は、人それぞれで、いろいろな読み方、味わい方ができる詩だと思う。子どもの成長、自立へのの歩みの一歩を、象徴的に語るものだろうか。または、親が自分の子の自立に立ち会い、その時の感慨を述べているものか。あるいは、病気や不慮の事故で、突然、人生を奪われた者たちへの、レクイエム(鎮魂歌)なのだろうか。

この詩の作者は、『えほん なぞなぞうた』(絵・あべ弘士)の中で、こんななぞなぞを語っている。「ブレーキ かけても とまらない/バックも できない まがれない/なのに むじこで やすまず はたらく〉。これなーに?」。ページをめくると、答えがある。答えは「じかん」。なるほど。時間はひたすら前を向いて走り、1秒だって休むことを知らない。「ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない/どこへいくのかわからないけど」。このように時間は、容赦なくすべての存在を追い立て、押し出して行く。人間は、いつまでも同じ場所、同じ時、同じ状況に居続けることは出来ない。いくらそこが居心地がよく、いとおしく、離れがたいと思ってみても。

旧約の大方の預言書には、「諸外国預言」と呼びならわされる一連の言葉がある。イスラエルを取り巻く周辺諸国への、裁きの預言を記している部分のことである。現在でも、国際関係の場で、緊張状態が生じると、政府の報道官が、当事国に対して、「遺憾の意」を表することがある。それと同様の外交上の働きかけであるとも理解できるであろう。実際に事を構えるには、大ごとになるので、言葉によって釘を刺し、相手を矯めようとする外交上の駆け引きである。「物言わぬは、腹膨るるわざ」なのである。

「諸外国預言」は、新年の神殿祭儀の場でなされた、という推定がある。初詣に多くの人々が集まる中、祭司がヤーウェ神との契約の更新を祈願し、民への祝福を祈る。さらに国の安泰と平安とを祈念するために、預言者が「諸外国預言」を口にする。神の言葉をもって、周辺の国々を呪い、その勢力を撓め、武力の矛先を鈍らせようという算段である。言葉そのものに霊力があると信じられた古代の観念が、そこには反映している。周囲の国々の没落は、自国の安寧維持の保障となるから、人々はこの呪いの預言を聞くときに、心に祝賀の思いを湧き起らせたであろう。

エゼキエル書では25章から32章までが「諸外国預言」に相当し、本書の第二部を構成している。一連の文言のまとまりの冒頭に、「第××年」という日付が記されているので、それを信用するなら、これらの預言は、紀元前587年のエルサレム陥落の時期と頃を同じくすることになる。祖国がまさに滅亡しようとするその時に、せめて言葉によって一矢報いようとする意図なのだろうか。もっとも滅亡をもたらしたバビロニアについて、預言者は沈黙しているのであるが。預言に論えられている相手は、まず、アンモンを始めとするユダの近隣の国々に対して、次いでティロスに向かられ、29章からはエジプトについて向けられている。その終結部が、今日の聖書個所である。

諸外国預言の「終結部」ということもあるのだろうか、確かに語られている文言は、エジプトへの裁きの言葉には違いないのだが、一連の言葉のトーンは、激しい憤りと怒りの表現というよりは、嘆きと憐みの情が入り混じった静かな「鎮魂歌」のようにも感じられる。テキストの直前の16節にはこう記される「これは嘆きの歌。彼らは悲しんでこれを歌う。国々の娘たちも、悲しんでこれを歌う。彼らはエジプトとそのすべての軍勢のために悲しんでこの歌をうたう」。

おそらく古代国家の中で、エジプトほど、政治、経済、軍事、インフラ整備どれをとっても、他国に抜きんでいた国家はなかったであろう。確かに国力の浮沈、権力の強大化弱体化等、幾多の変遷はあったが、常にオリエント世界の泰斗として君臨してきたのである。ところがエゼキエルの預言は、このように語られる。18節以下「人の子よ、あなたと諸国の娘たちはエジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ。わたしは彼らを地の低い所に下らせる。穴に下って行く者と共に。お前はだれよりも美しいと思っていたのか。下って行き、割礼のない者と共に横たわれ。彼らは剣で殺された者の間に倒れる」。剣で殺され、穴の中に葬られ、ただ地に横たわっているだけの無力な死者として、強大なエジプトを喩えるのである。

このエゼキエルの言葉には、旧約の人々が抱いていた「死生観」がはっきりと表されていると言えるだろう。エジプト人は、死後の世界を多彩な想像によって彩り、死者の再生を信じていた。極彩色で彩られた彼らの死後の世界は、人間の究極の願望を如実に物語るものであろう。しかしイスラエルのそれは、穴の中にどんな身分の者も、どんな境遇に生きた者も、誰も等しく「穴の中に横たわる」状態こそが、死の世界の有様なのである。ここには、極めて現実的な思考によって、生き抜いていたユダ・イスラエルの人々の視点が強く反映していると言えるだろう。

確かに、死ねば人間はただ穴の中で横たわるだけ、貴人も勇者も、また平民も何ら違いはない、というドライな価値観には、その思想の徹底さには脱帽するが、余りに直截すぎる思考に、たじろぐ思いにもなる。イスラエルの人々は、死後の問題、とりわけ慰めをどこに見ていたのだろうか。今日のエゼキエルの言葉には、それが豊かに表現されていると思われる。神ヤーウェは、穴に降り、横たわるだけになった死者のために、「嘆きの歌を歌え」と命じるのである。「死者のための嘆き」を語る神は、死者のために自ら嘆く神ではないのか。

前述の詩はこう閉じられる。「よるになったらほしをみる/ひるはいろんなひととはなしをする/そしてきっといちばんすきなものをみつける/みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる/だからとおくにいてもさびしくないよ/ぼくもういかなきゃなんない」。唯一無二の生命を生きるひとりの人間を知り、そこに働きかける方がおられるのである。