受難週祈祷会 ヨハネによる福音書17章1~19節

この世界(地球上)には、いろいろな個性を持った生き物が存在している。「クマムシ(別名water bear)は非常に小さな水生動物で、100度の高温から下はマイナス273度の低温環境、真空の宇宙空間、超高圧な環境、強い放射線が当たる環境など、極限状態でも生き残ることができます。研究者は長いことクマムシの耐性に魅了され続けていますが、なぜこうした耐性をもつのかまだわかっていません。クマムシがこのような極限状態を耐えられるようにしている分子を見つける必要があります。」(國枝武和氏)。皆さんは、クマムシのようになりたいと願うだろうか。

ここ数年の間、目には見えないが、私たちの生活をおびやかし、いろいろな制約を与え、日常生活の仕方を変えてしまったコロナ・ウイルス、その正体は、生物とも無生物ともつかない、原始的な生命体である。そういう原始的な生命体の中には、所謂「死」を持たない生きものが存在するという。方や、ごく一般的な動物植物は、長い短いの差はあっても、一定期間生きたならば、個体としては終わり、即ち「死」を迎え、消滅していく。人間は「霊長類」と名付けられ、哺乳類等の生き物の中では、比較的長命であり、思考力により医学を発展させ、医療行為も進歩、充実させて来たので、その寿命は次第に長くなって行った。ところが、「死」そのものを回避することはできず、今なお、有限な存在としてあり続けている。

生きる年月に「限界」を持っている存在だからこそ、人間は「永遠」を考え、「永遠」に価値を置き、「永遠」を志向するのであろう。それが「永遠の生命」という言葉によく表されている。この世界で、最も古い文明である古代メソポタミアの文学、『ギルガメシュ叙事詩』を始めとして、古今東西の神話や伝説に、既に「永遠の生命」をめぐる物語がいくつも記されている。それらの物語には一定の類型があって、「永遠の生命」をもう少しで獲得できようという手前で、何らかの落ち度や失敗によって達成できないという結末を迎えるものがほとんどである。

今日の聖書個所は、ヨハネによる福音書中の、主イエスの「遺言」、あるいは「告別説教

と呼ばれる部分の末尾である。長々と別れの言葉が語られ、その最後に「祈り」でもって締めくくられる、礼拝説教のような構成となっている。その祈りで、「永遠の生命」という言葉が語られ、実はそれがこの福音書の「鍵語」ともなっているのである。2節「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。主イエスは、「ゆだねられた人々」つまり神によって選ばれ、主イエスのもとに招かれた人々、教会に繋がる人たちに、「永遠の生命」を与えることができる、というのである。

しかし「永遠の生命」という言葉から、かの極限状態下でも生存が可能な「クマムシ」や、あるいは原始的な「ウイルス」のような、いわゆる「死なない生き物」のようになる、と短絡的に考える人は、よもやいないだろう。単に生物学的な生存だけを意味するなら、身体を極低温状態に凍結保存しておけば、済むだけの話である。主イエスの恵みのひとかけらも、必要ないのである。だから3節にこう説明される「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。決して、生物学的に不死の身体を与えられることではなくて、神とキリストを「知る」ことが、「永遠の命」なのだというのである。

そもそも「永遠」とは、「死なない」ということではなくて、「変わることがない」あるいは「普遍」を意味する用語である。人間は、年齢と共に、内的外的に変化をする。赤ん坊から、子ども、成長して大人となり、やがて年老い、死を迎える。生きる年月は自分では決められず、その長短も運命づけられている。この世に生起することは、ことごとく変転し、移り変わって行く。この国の震災も、コロナ禍や戦争すらも、この世がひと時も留まってはいないことを物語っている。万物流転の相ゆえに、地の基は揺り動かされ、私たちの足元は、常に危うさと隣り合わせに置かれている。しかも、それを前もってしかと知り得ず、後になってから臍を噛むのである。だから「安心・安全」は容易に得られないのである。人は、変わらないもの、「永遠」を求める。そして、その在りかがどこかを知ることができれば、私たちは、心からの「安心・安全」を得られるであろう。

主イエスは、十字架に付けられて、血を流され、無残にも亡くなられた。痛ましい姿で人として死なれたのである。私たちもそれぞれの生きる年月を過ごし、歩くべき道のりを歩き終わったならば、この世とお別れをすることになる。誰でも例外なしに、死は訪れる。どんなによく生きても、悪く生きても、この世では「死」で終わりを迎える。しかし、主イエスは、死で終わらない命があることを、私たちに告げ知らせ、その生命のまことを、自ら私たちに示し、「復活の生命」を私たちに表された。これが、変わることのない「永遠の生命」の在りかがどこにあるか、への答えなのである。

あるキリスト者がこう語っている。「18歳で親もとを巣立つまで、沢山の耳学問をしたと思う。本などでは学べないことを実体験した人の口から直接きけたのである。何と贅沢な18年間であったろう。あれから約50年が経つが、五島で学んだ耳学問を全部語ったということはない。汲めども汲めども尽きないわき水のように、次から次に語るべきものを思い出す。今、私が特に力を込めてしゃべるのが、断片的にきかされた戦争中の生活である。父の戦地体験をはじめ、内地での食料不足、日用品の不足等の話である。戦争がいかに悲惨なものであるか語り続けて欲しい。それが戦争を体験した人の残された仕事だと思う。それを一番望まれているのが、人類の平和を願う神さまだと思うから。(今井 美沙子)。

神への思いと共に、自分が受け継いできた、「汲めども尽きない湧き水」のような言葉を他に伝え、分かち合い、毎日の生活を営んでいる。最も伝えなければならないのが、戦争の悲惨さだという。キリスト者であるとは、時代が変わっても、この世がどうなっても、変わらない言葉を持つ者なのだと、改めて思い起こされる。私たちは、主イエスの復活の生命にあずかりつつ、毎日を生かされるのである。