祈祷会・聖書の学び エゼキエル書2章3節~3章11節

小さい頃、はやりの歌で「わかっちゃいるけどやめられない」という調子のいい曲があり、巷でよく耳にしたことで、いつのまにかその歌詞を憶えてしまった。それで、親などから繰り返し小言を言われると、この台詞をつい口にして言い返し、かえってひどく叱られるということもしばしばあった。これもまた歌の持つ力というものだろうか。

こういう文章がある。「わかっちゃいるけどやめられないといったところが、私たちにはあります。行く所まで行かないと引き返せないというところがあるのです。そんな所まで行かずに気がついて引き返せたら、一番良いのですが、そうは行かないのです。そして、頭をぶっつけ傷だらけになって初めて目が覚めるのです」(藤木正三『神の風景』)。「若気の至り」、と言う言葉があるように、いや「老気」に至っても、人間にはやはりこうした側面があるのだろう。「わかっちゃいるけど、やめられない」は仕方ないにしても、「頭をぶっつけ傷だらけになって初めて目が覚め」た時、どうするかが、一番の問題なのである。

エゼキエル書2章において、預言者は、神から次のように召命を受ける。3節「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」。「反逆の家」という言葉は、5節から7節にかけても繰り返される。この後、3章9節、26、27節に、また12章1、2節にも反復される。これはエゼキエル書特有の表現、キーワードのひとつと言って良いだろう。ユダの民は「反逆の民」である、と神は預言者に告げる。「反逆」とは、いささか物騒で激しい印象を受ける言葉である。何かに反抗し、歯向かい、背を向け、刃を向けるという暴力的な振る舞いを連想させられるが、どうだろうか。逆に、そういう対立や対決の姿勢をまったく持たず、相手に唯々諾々と従うことが、人間としてほんとうにあるべき姿なのだろうか。

飛行機がいよいよ飛び立とうとする時には、滑走路を後ずさりするように、随分長く地上を走行する。滑走路の一番端奥まで到達すると、ようやく向きを変えて、ひとまず小休止するように立ち止まる。その後でようやく離陸のための助走が始まるのである。一たび離陸が始まれば、それまでの地上ののろのろした歩みをかなぐり捨てて、というような風情で、一気に空に飛び立つのである。「反逆」というと、どうも不道徳的な響きが感じられてしまうから、ネガティブな印象を与えるきらいがあるが、実のところ、成長や進歩には必ずそうした要素が付きまとっているのではないか。子どもがひとり立ち、自立を始める時には、今まで自分を守ってくれていたものに「反逆」するという行動となって現れる。すると「反逆」とは、ちょうど離陸のための「背走」にも喩えられるだろう。

但し、「反逆」の相手が「神」であることに、疑義を呈する向きもある。人間的な事柄にいろいろ疑いを抱いて反発したり、否定したり、攻撃することはままあるだろう。それで新しい地平を切り開こうとするのである。しかしすべてのものの根源である「神」に対しての「反逆」は、果たして「是」とされるのか。とはいうものの、私たちの毎日の日常生活で、いつもいつも「神」を意識しながら、どうしたら神のみこころに添えるのか、思案しながら過ごしている訳ではないし、痛ましい事故や自然災害、戦争や紛争に遭遇して、それまでの安心や平安が破壊されると、「神がいるのになぜ」と問うのはどういうことか。それこそまさに、神を忘れて生きているという典型的な姿であり、それこそ「反逆」と呼べるものではないのか。

「反逆」とは、「神の恵みを忘れて歩もうとするあり方」であると受け留める方がより適切であろう。丁度、主イエスがたとえ話で語られた「放蕩息子」のようである。彼は父の庇護に背を向け、自分の道を歩もうとした。確かに子どもはいつまでも親の掌中に留まることなく、自身の道を歩み始めるであろう。その道程で過ちを犯し、挫折を味わい、立ち往生することもあるだろう。王国となったイスラエルは、確かに「放蕩息子」であった。自分たちの国を打ち立て、その領土を増し加え、堅固な都を築き、壮麗な神殿を建設した。自分の力と知恵によって、自らの威光をさらに大きくし、不動なものとすることを試みたのである。

しかし大イスラエル主義は周辺諸国との強い軋轢を生じ、幾多の紛争を呼び覚まし、ついに自国の滅亡をも招くことになる。その帰結が「バビロン捕囚」であった。それまで築き上げ、手に入れたすべてのものを、イスラエルは一切失ったのである。そうした時に、人間を支えるものが何であるか、預言者はこのテキストではっきりと示すのである。3章1節以下「『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、 言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」。神は彼に、み言葉が記された巻物、つまり「律法の書」を食べて、腹を満たせというのである。するとその巻物は、「口に甘かった」と語られる。これはイスラエルの幼児体験を回顧させるような、比喩的言及である。かつて物心つくかつかない内に、いかにして私たちは養われたのか、あの「甘いもの」の味を思い起せ。

喪失の時に、かつての幼い時に育まれた恵みに、思いをはせるならば、方向転換することもできるだろう。即ち「悔い改め」である。ところがつらい現実に押しつぶされて、「幼い時の恵み」にまったく通路を開くことが出来なくなったなら、私たちは帰るべきところ、帰るべき術を失うのである。幼少の頃の虐待は、子どもに帰るべきところ、その術を奪うことで、人間の未来を奪う最も野蛮な罪となるであろう。

エゼキエルが神から託された務めは、未来を失っている捕囚の民に、「幼い時の恵み」を思い起こさせる事柄であった。「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。」この幼い頃の恵みが思い起こされた時、恵みの場所への道が見えて来るであろうし、そこに向かって歩む力をも、与えられるであろう。「反逆」とは神が共におられながら、その恵みを思うことなく、自らの無力感に沈むことである。「わかっちゃいるけどやめられない」、とはおそらく、「やめられない」に力点があるのではなく、「わかっている」の方に主眼があるのだろう。