祈祷会・聖書の学び サムエル記下23章1~7節

下世話な話題で申し訳ないが、作家の村上春樹氏がエッセイに記している。「自分の好きなこと」、この有名な作家の好むこととは何か想像がつくだろうか。それは、たまにデパートなどで自分のパンツをまとめ買いをするのが好きだと、言うのである。タンスの引き出しに、きちんと折りたたんで、くるくる丸められたきれいなパンツがたくさん詰まっていると幸せを感じる。人それぞれにいろいろは楽しみがある。そんな「人生における小さくはあるが確固とした幸せ」を、村上氏は「小確幸」と呼んでいる。おいしいものを食べたとき、お風呂にゆっくりつかったとき、布団にもぐって眠ると、日々ささやかな幸せを感じる瞬間がある。小さくても確かな幸せを大切にしていれば、毎日を豊かに生きていける、ということなのだろうか。人間が、その生が、どういう事柄によって支えられているのか、考えさせられる。

今日の聖書の個所は、サムエル記の終結部である。通常、最晩年の記述は、その人物の「遺言」が記されるものだが、ダビデの場合、「最期の言葉」は、彼の手になる「歌」という形で伝えられている。サウルの後を襲って全イスラエルの王となったダビデは、もとはと言えば、エルサレムに比べたら寒村のベツレヘムで、羊を飼うことで生計を立てていたエッサイ家の末息子であった。

この田舎住まいの少年が、そもそもサウル王宮に召し抱えられたのは、家柄や富、あるいは武功によるのではなかった。彼の運命を左右したのは、「歌」であった。古代の歌手は、聴衆の前に即興で、楽器(竪琴)を奏でて歌う才能の持ち主であった。ヨーロッパ中世の「吟遊詩人」、あるいは現代の「シンガー&ソングライター」の祖先である。しかも「職業」として認識されていたのは、随分古い時代からのことと推定されている。創世記4章21節に「その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった」と記されるが、この人物は実にカインの末裔である。聖書では、牧畜、農耕とならんで、芸能、工業技術(金属加工)を、最古の職業と見なしている。牧畜・農耕は「食料」、芸能は「祭祀」、工業技術は「軍事」に資するためである。古い起源であることも頷ける。

ダビデは「歌」の賜物に豊かに与えられていた。竪琴を弾き、それに合せて即興の歌を歌う。古代に生きる人々の生活に、歌は欠かせないものである。上から下まで、明けても暮れても、人間生活において、音楽なしには事が運ばなかったのである。宗教を始めとするあらゆる祭祀、宗教儀礼が執行される時、農作業や家畜の毛刈り、酒舟を踏む等々の労働の時、冠婚葬祭、生活のあらゆるところに、歌と演奏は欠くべからざるものであった。

ダビデは音楽に巧みであった、ただこの一点によって、彼の人生は王家と繋がり、彼自身もまた王としての道を歩まされることになる。こういう人生のふとした背後に、神の計画があり、導きがあることを、サムエル記は、暗黙の裡に語るのである。だから彼の最晩年の事柄も、最後の言葉も、歌として記される。歌こそダビデの最もダビデらしさ、ということなのだろう。一切の末尾に、「イスラエルの麗しい歌」という章句があるが、これは彼の最後の歌が、非常に美しい、ということばかりか、このダビデという人物が、その生涯そのものが、一編の「イスラエルの麗しい歌」だと言いたいのである。だから、詩編中の膨大な歌は、「ダビデの歌」と表題が与えられ、彼に由来するものとみなされるのである。

「歌」とは不思議なものである。現代の演奏家にしても、「神が降りて来る」等という言い方をする時がある。童謡『ぞうさん』の作者として有名なまどみちお氏は、自分の手になる詩の生まれる秘密について、象徴的な話をしている。「ことばはことばの国にすでにある。それが風に乗って心の中に吹いてきて、通り過ぎる。その時、心に引っかかる言葉がいくつかある。それを書いているに過ぎません」。

ダビデの歌も、そのようであることが、今日のみ言葉から伺える。2~3節「主の霊はわたしの内に語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる」。神は言葉を語られる。神の言葉は霊であり、それが舌、つまり自分の命の根源にあって、わたしを守る岩の如きものである、とダビデは歌うのである。ここに彼の人生の回顧が、端的に語られているであろう。

彼の人生は、若い時は自分が誠心誠意を込めて仕えたサウル王によって、生命を狙われ、長く逃亡生活を余儀なくされた。方や年老いてからは、実子アブサロムから王位継承に絡んで生命を狙われ、またしても逃亡生活を余儀なくされる。実に彼の人生は、「逃げの人生」そのものである。サウルにしても、アブサロムにしても、彼にとっては「大切な存在」である。生命を狙う者たちに、雄々しく立ち向かい、禍根を断つのではなくて、愛のゆえに「逃亡」という方法を選ぶ。そういう人生の選択もあることを、私たちは彼から学ぶのである。しかし「逃げること」はエネルギーが必要である。彼がその力をどこから得て来たのか、しっかりと問う必要があるだろう。

そのような選択や決断がどこから生まれて来るのか。3節後半にこう歌われている「神に従って人を治める者、神を畏れて治める者」、つまり敵対する者を、自分の了見で排除するのではなく、自分と敵との間におられる神のみこころを求めたのである。それが「神に従って治める、神を畏れて治める」という言葉の意味である。

4節の章句は、非常に美しいイメージを湧き起こさせる。「朝のひかり」。丁度、主イエスは言われた「神は善人の上にも、悪人の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らせてくださる」というみ言葉が思い起こされる。その光があるからこそ、どの人も皆、生かされるし、その光によって、「わたしの救い、わたしの喜びを、すべて神は芽生えさせてくださる」のである。

偉大な王、ダビデもまた人の子であった。時に大きな過ちを犯し、後悔し、嘆き悲しんだ。大声で泣いた。しかし、その時に彼が発見したのは、それでも神は自分を見捨てることはないという事実であった。だから彼は悔い改めすることができ、翻って生きることができたのである。神はわたしと離れることがないことを、ダビデはどこで確信したのか。「神はわたしの舌と共にある」と彼は歌う。自分の人生どんな時も、歌が消えてなくならなかった、これこそが彼の原体験であり、終生変わらぬ思いであったと言えるだろう。