祈祷会・聖書の学び テモテへの手紙一5章1~13節

私の恩師だったある牧師の口癖は、「人はひとりだ」であった。60歳半ばにして、長年連れ添った奥様を病気で亡くされた。その別離の体験が裏打ちされているのだろうか。「長生きをすればするほど、みんな最後はひとりになる。結婚したひとも、結婚しなかったひとも、最後はひとりになる。女のひとは、そう覚悟しておいたほうがよい」。2007年に出版された上野千鶴子氏の著書『おひとりさまの老後』は、このような言葉から始まっている。女性学、ジェンダー研究の第一人者として知られる上野氏が、子どもに頼らない、ひとりが基本の老後の暮らし方に、徹底的に向き合ながら書かれたこの本は、この国の人々に大きな衝撃を与え、また反響を呼び、75万部のベストセラーとなった。

「最初の(執筆の)動機はまったく私利私欲のためでした。子供がいない、おひとりさまの私が先々、安心して生きていくには“どこに住んでどう暮らすか・人とのつき合い方やお金はどうするか・どんな介護を受けるか”。当時、漠然と不安に感じていたことを調べようと思ったのがきっかけでした。(そして)この時代の変化の速さは私の想定をはるかに超えていました」。

「最初は私のような、いわゆる世間的に“かわいそう”と言われる少数派シングルのために本を書いたのです。何しろ私たちは“子供がいなくて老後はどうするの?”と真顔で心配されてきた世代ですから。それが、いつの間にか、市民権を得てしまった。おひとりさまは今や多数派ともいえる時代になっています。かつては結婚前か、夫と離死別した後、つまりファミリーを作る前か後か、にしか使われない言葉であった“おひとりさま”が一つのライフスタイルになり、今もその数は増え続けています。しかも、探るほどに“なーんだ、シングルの老後ってこんなに楽しいんだ!”という結論が出てきて、それを一冊にまとめたのが、おひとりさまシリーズの最初でした」。この本の出版から10年以上が過ぎたが。驚くほどのスピードで、「おひとりさま時代」がやってきた、と言えるのではないか。

今日の聖書個所は、テモテへの手紙一5章前半のみ言葉である。本書は「牧会書簡」のひとつとされるが、「牧会」とは「教会における牧師の働き」のことで、神に呼び集められた人々を、羊の群れのように、お世話をするという意味であり、ドイツでは「ゼール・ゾルゲ(魂への配慮)」と呼ばれている。確かにその通りだが、見えない魂への必要を見て取り、そこに働きかけ、ケアーする、などということは、本来神ならぬ人間にできる仕事ではない。できないのを承知で、それでも神の委託によって行うのである。だから牧師は、結局、大牧者である主イエス・キリストに、お委ねするしかない。誰かを主イエスのもとに連れて行くことが、「せいぜい」できることなのだが、それで道に迷ったり、道草を食ったりで、回り道をすることも、しばしばである。

本書は、使徒パウロが、愛する弟子のテモテに、実際に教会に生じている問題を取り上げて、牧会上の要諦を伝授する、という体裁によって記されているが、聖書学者の多くは、紀元1世紀末から2世紀初頭に記された著作と推定している。最初の教会が誕生してから、半世紀以上、間もなく1世紀を経ようか、という年月である。地域や国からの迫害は、断続しているにせよ、教理は次第に形を整え、教会の数、規模、設備、組織等も、随分、当初の状態とは変化している。「充実」とか「発展」とか言う言葉で呼び得るかもしれない。

ところがそうなると、教会内にさまざまな具体的な問題も生じてくるのである。

使徒言行録には、初代教会が多くの「やもめ」たちのお世話をしていたことを伝えている。教会において、彼女たちに「衣食住」を提供したのである。もちろん非常に質素な生活の支えであっただろうが、この世的には最も弱い立場に置かれていた方々にとっては、実に生命が守られたのである。この働きは、時を越えて続けられたのであり、3節に「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」という勧めからもそれが分かる。「やもめ」即ち「未亡人」は、収入や社会的地位等の後ろ盾である「夫」を欠いているために、生きる術をまったく失った状態に置かれているのである。人権が、現代とは格段にかけ離れた感覚の時代に、教会は今で言う「福祉」的働きに、邁進したのである。それは主イエスの宣教のみわざ、即ち「愛」を、自分たちの手によって継続しようという祈りからであった。実際、主イエスの宣教には、「やもめ」達が多く集い、行動を共にしたのだろう。主イエスはこうした「小さくされた人々」を拒絶なさらなかったのである。

ところが、本書の時代はローマ帝国の爛熟期である。現代も格差社会の更なる拡がりが懸念されているが、それどころではない超格差社会が現出している。同時に、現代がはらむ問題と同様な事態も生じていたことが、よく理解される。「家族であっても、老齢の親の面倒をまったく見ようとしない子や孫」(4節)や、「放縦な生活をしているやもめ」(6節)、おそらく「放縦」とは、飲酒や博打等、遊興のために、家族から金をせびるような行為を指しているものと思われる。だから、本書では、教会で世話をされるべき「やもめ」について具体的に「規定」していることが、いささか興味深い。9節以下「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」。随分、ハードルの高い規定であるようにも思える。「登録」という用語に典型的に、現代の福祉行政の現実を、そのまま鏡に映して見るようなのだが、こうした規定は、「保護」という側面にとって「必要悪」で、致し方のないものなのだろうか。殊、これは「教会」の問題なのである。

しかしまた、極めて教会らしい発想も、ここに見て取ることができる。「やもめ」は生活するにあたり「保護」されるべき立場にあるのだが、彼らはただ一方的に「与えられるだけ」、「受けるだけ」の存在であったのだろうか。もしそうだとしたら、人間の「尊厳」はどうなるだろう。5節に興味深い言葉が見出せる「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」。これは教会に保護された「やもめ」が、その中で行っていた日々の働きを伝えるものだろう。彼らは「賛美し、祈る人」として自らを表していたのである。教会のすべてのことについて、すべての人のために賛美し祈り、神にとりなしをしていた状況が、了解される。もしかしたら、困難な事態や、悩みを抱えた若い人々が、「祈ってほしい」と彼らを訪れ願ったこともしばしばだったであろう。「愛」は一方的な働きではない。間にあって、人と人とを豊かにつなぐのである。