祈祷会・聖書の学び テモテへの手紙二2章14~26節

最近、この国でも「スタンドアップミーティング」「立ったままの会議」が話題に上る。ひとりでは生きられず、言葉によって生きている人間の宿命が、「話し合い」「会議」「議論」というものであろう。いくら強力な独裁者が支配する国でも、「会議」のない世界というものはない。独裁者も自分一人だけでは、何もできないからである。聖書でも、神は天上で会議を招集し、開催する議長に準えて語られている。ではなぜ立ったまま、話し合いをしようというのか。

その理由として、「作業の効率化(余った時間は他の仕事に宛てられる)」、「コミュニケーションが取りやすい」、「眠くならない」、「健康に良い」等々が上げられるだろう。但し、これらの理由は、「企業」や「会社」といった組織の目標、「時は金なり」に適合するものであり、すべての分野で効果的とはいかないだろう。例えば、私たちの一番身近な場合で言えば、家族間の話し合いを、いつも「スタンドアップミーティング」で行ったとしたら、良い結果を生むかと言えば、おそらくそうではないだろう。時に飲食しながら、だらだらととりとめなくなされるところで最も有効に機能し、一番の価値と意味とを発揮する場合もある。さらに、教会の会議を考えるならば、どう判断できるだろうか。役員会や総会の効率化のために、「スタンドアップミーティング」で行いましょう、と誰かから提案がなされたら、皆はどう反応するだろうか。

いわゆる牧会書簡は、紀元1世紀末から2世紀半ばくらいに執筆されたと思われるが、その時代の教会の、実際の息づかいを知ることができる貴重な資料でもある。丹念に読むと、当然のことながら、教会が地上の楽園のように運営されていたのでは決してない、ことをも知らされるのである。今日の個所は、教会での「議論」が問題にされている。14節は、いささか不明瞭に「言葉をあげつらう」と訳されているが、本来なら直截的に「議論」と訳されてしかるべきである。素直に読めば「教会で議論をするな」と「神の御前で厳かに命じる」というのである。続けて「そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させる」とまでいうのである。これでは教会では会議を開催することはできなくなってしまう。

このような主張を理解するためには、この時代の「議論」というものが、いかなるものであったかを知る必要があるだろう。そもそも「議論」とはどういう場でなされるものなのか。古代ギリシャの哲学者、プラトンの著作に『饗宴(シンポジオン)』がある。会議の方法のひとつ「シンポジウム」の語源ともなった言葉が用いられている。一つのテーマについて、何人かの話者によって、それぞれ異なる立場からの議論が表明される。聴衆はそれを聞くことで、複数の見解を一度に取得できるという利点がある。

古代ギリシャのシンポジオンとは、宴会での余興とも呼べるものであった。招かれた客は、まず贅を尽くした晩餐のふるまいに与る。食事の後、酒宴となるが、そこで酒の肴に披露されるのが「議論」なのである。宴席のホストによって掲げられたテーマについて、「我こそは」という論客が渾身の弁舌を奮う。客たちはその「議論」を、酒を飲みながら耳を傾けて、その「議論」に甲乙の判断を付け、最も優秀な「議論」をした者を選び讃える。当の著作では、宴の途中で招かれざる闖入者の突然の議論も加わり、大混乱となるが、やはりソクラテスの為した弁論が最も高く評価される。宴に招かれた者たちが次々に酔いつぶれて明け方を迎えるが、ソクラテスは何事も無かったように、平然と宴席を後にする、という内容である。つまり「議論」とは、知識人たちの遊興の類であり、話の巧みさを競う競技のようなものだったのである。現代に比べて遊興の乏しい時代、やはり「物語」を聞くことは心を魅了する大きな楽しみ、喜びであったと言えるだろう。

最初の教会が成立した時代、たくさんの人々が教会に集った理由のひとつに、「物語」があっただろう。主イエスの宣教において、主イエスの語られた物語、その多くは「たとえ話」は、聞く者の心を魅了したことに間違いはない。それ程、主イエスの語る話は斬新で面白かったのである。「律法学者のようでなく、権威ある者のように語られた」とは、主イエスに対する最大限の賛辞であったろう。教会はそういう主イエスの宣教のスタイル、「物語によって」を受け継いだのである。主イエスの言葉を伝承した教会が語る「神の物語」は、自由で奔放で生命に溢れていたことだろう。

ところが時代が下るにつれ、主イエスの語った「神の物語」ではなく、「自分の物語」を語る者が現れるようになった。やはり人間は、「誰の話は上手だ、下手だ」と言って評価したがるのである。さながら人気取りのように語る、さらに自分の宗教的確信を滔々と論じることで、派閥を作り、主張の優位さを競い合うようにもなって行ったのである。本来、教会は人間が語る場所ではなくて、神の言葉を聞くべき場所なのである。人間がしゃしゃり出て議論するならば、神の言葉は消えるであろう。祈りにおいて共に聞こうとするならば、神は必ずお語りくださるのである。ひとりの耳では、聞こえない声も、共に聞こうとするなら、必ず聞き取ることができるであろう。その分ち合いによって、教会の「議論」は為されていくのである。

教会もまた人々の集まる所だから、「言葉によって」、事柄は進められていく。言葉なしには何事もなされない。24節「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです」。いささか耳の痛い勧告であるが、本来、この世のいかなる議論も、この精神において為されるべきであろうことははっきりしている。脅しや圧力によっては、人間の心は自由にできないのである。但し、教会に集う人々は、これを単なる理想や夢として受け止めるのではなく、少し手を伸ばせば、手の届くところにあることとして理解するのである。なぜなら教会は本来、何かをするために、例えば利益を上げ、業績を残すためにではなく、ただ神が集められるから集まり、そして神によって散らされるから、それぞれの場所に戻って行く、遣わされるというベクトルを持つところなのである。せめて日曜日くらい、腰を落ち着けて、ゆっくりとみ言葉を聞きたいものである、できれば楽しく。