こういう問いがある。忙しいとき「猫の手も借りたい」というが、「犬の手も借りたい」とは言わない。何故なのか。実はこれ、大学入試問題である。近頃、入試の多様化とかで、さまざまな出題がなされる。皆さんだったらどう答えるだろうか。しかしこんな問題、どんな人が出題するのか。
こういう答えがあった「猫の手も借りたい」は、ものすご~く忙しくて大変な時に使うことわざです。どんなに小さい手でも借りて手伝ってほしいと言う意味で使われますが、実際のところ猫って本当に役に立たないんですよ。犬ならば人命救助をしたり、麻薬の捜査をしたり、目の見えない人を補助をしたりと人間の役に立つことができます。ところが猫ときたら、人の役に立つなんてことはまるっきりありません。忙しい時にはむしろ邪魔をする生き物なんです。忙しい時には、むしろ近くに来ないで欲しいですね。そんな猫の手でも借りたいというなら、本当に、ものすご~く忙しいのでしょう」。猫は全く役に立たない。それでもその手を借りたいほどの忙しさ。
世界のいろいろなところ、あまり観光客が行かないところばかりを旅行してきた人が言っていた。比較的豊かな地方は犬が飼われている。しかし非常に貧しい地域は、猫が飼われている。やはり犬は餌をたくさん食べるのである。犬にやる餌にも余裕のないところには、猫が飼われることになる。しかしである、そこまで食料に逼迫しているのに、なぜあえて猫を飼うのかである。しかも人間にとって直接的には役に立たない猫である。役に立つとはどういうことか、しばし考えさせられる。
皆さんは、自分を役に立つ人だと思うか、役に立たない人だと思うか。役に立たない、ということは通常「意味がない」ということであるから、一番人間にとってつらいことかもしれない。しかし、この世界は、「役立たず」という言葉が、実に頻繁に語られるところである。皆さんはまともにそういわれたことはあるか。それは単に「利益を生み出さない」「儲けにならない」ということで、人間のすべての価値を、経済的損得に置き換えた表現である。本当のところ、儲けを生み出すか利益を生み出すかどうか、だけが役立つの基準なのだが、それで人間のすべてを一刀両断にするところに、この言葉の悲しさがある。近頃のこの国の人間に対する評価は、自他ともに、それだけになってしまったような気がする。
今日はフィレモンへの手紙を取り上げる。章立てのない短い文書であるが、聖書学者たちは、パウロの真正の手紙と認めており、彼の人となり、具体的に、どのように教会の人々とふれあっていたのかが知れる貴重な資料でもある。パウロの手紙の中では、最晩年に記されたもののひとつである。
さて、今日の聖書の11節にこう記されている。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でした」。パウロはオネシモについてこう語る。オネシモはもともとこの手紙のあて先、フィレモンに仕える奴隷であった。このオネシモは、いまいち理由は語られていないが、フィレモンの家を逃げ出し、しかも逃げるに乗じて主人の金をちょろまかして逃亡したらしい。そしてその金銭も使い果たして身の置き所もなくなったのであろう、主人フィレモンの師とも言うべきパウロのところに転がり込んだ輩である。その役立たずのオネシモを、元のフィレモン家に戻すべく、彼と共に持たせた手紙がこの「フィレモンへの手紙」と言うわけである。丁度、放蕩息子の話を彷彿とさせるいきさつである。パウロによる「放蕩息子」の話である。
オネシモ、この名前の意味は「役に立つもの」である。パウロはここで言葉遊びをしているのである。「オネシモ、昔、この名前に正反対の役立たずが、今、名前の通り、役に立つオネシモになった」とパウロは言う。パウロの語り方として、敵の攻撃的な言葉をそのまま引用して、相手に逆襲する戦略を常套手段としたところから、この「役立たず」発言は、フィレモンの口にさかのぼる可能性がある。つまりフィレモンは、常日頃オネシモに、「オネシモ、お前は、『役に立つ』と言う意味の名前なのだが、名前とは裏腹に本当に『役立たず』の人間だ」と言っていたふしがある。いつもオネシモは「役立たず、役立たず」、と主人に言われ続けであった。そこらあたりにオネシモがフィレモン家を逃亡した理由があるのではないか。オネシモは決してずるいだけの悪意の塊であったとは思われない。誰しも常に、上の者から「役立たず」と言われ続けたら、いたたまれないだろう。オネシモが本当にいい加減で、でたらめな人間であったら、主人の先生のパウロのところになんぞ飛びこんで行っただろうか。パウロに助けを求めたという所に、彼の不器用さ、善人さがよく表れているのではないか。
「彼は、以前はあなたにとって役に立たないものでしたが、今はあなたにもわたしにも、役立つものとなっています」。ここでパウロの言う「役立つ」とはどういう意味であろうか。パウロの下で訓練して、スキルアップし技術や資格を身につけたのか。パウロはオネシモのことを「監禁中にもうけたわたしの子」と呼んでいる。つまりわたしの分身、血を分けたもう一人の自分、とまでいうのである。オネシモは奴隷である。パウロもまたキリストの奴隷である。「役立たず」ということについては、パウロ自身、どれ程わが身のことを重ね合わせただろうか。パウロと言う人は、肝心なときに本当に役立たずな人間と思っていたし、実際そうであった。自分の育てた教会の一大事に、直ぐにでも飛んでいかなければならないような時に、病気のためいくことも出来ず、手紙を書くことしかできなかった人である。手紙を書いたのは、手紙を書くしか出来なかったからである。それ以外に肝心なことは何も出来なかったのである。「わたしの子、オネシモ」という言葉に、皆はどれ程思いをはせられるか。病んで、犯罪者として囚われているパウロのもとで、役立たずのパウロのもとで、彼はキリストへの信仰を育んだのである。オネシモの信仰の基になったのは。実に「役立たず」であったのである。神は、この役立たずを、恵みの器として用いるのである。
ハンセン病を患った方の詩に次のような作品があることを神谷美恵子氏が紹介している。「私はうつわ 愛をうけるための。うつわはまるで腐れ木だ、いつこわれるか わからない。でも愛はいのちの水 大いなる泉のものだから。あとからあとから湧き出でて つきることもない。 愛は降りつづける 時には春雨のように 時には夕立のように どの日にもやむことはない。・・・うつわはじきに溢れてしまう そしてまわりにこぼれて行く こぼれてどこへ行くのだろう。――そんなこと、私は知らない。 私はうつわ 愛をうけるための。私はただのうつわ、いつもうけるだけ」。
いつ壊れるか分からない、腐った器のような自分、その壊れた器に神は命の水を滴らせ、その恵みの水をあふれさせる。その壊れた、役立たずの器を通して、命の水はあふれて周囲にこぼれていく。その恵みはこぼれてどこにいくか分からない。しかしその腐った器こそ、神の恵みの受け手なのである。役立たずこそ、恵みの器。それはパウロ、オネシモ、そしてわたし、あなたなのである。