以前、この国の大企業経営者が自身のスピーチの中で取り上げて、有名になった「ロバと老夫婦の話」を紹介したい。『ロバを連れながら歩く老夫婦がいました。こう言われました。『ロバがいるのに乗らないのか?』と。老夫がロバに乗って、老婆が歩いていると、こう言われました。『威張った老夫だ』と。老婆がロバに乗って、老夫が歩いていると、こう言われました。『あの老夫は老婆に頭が上がらないんだ』と。最後に老夫婦が揃ってロバに乗っていると、こう言われました。『二人も乗って、ロバがかわいそうだ』」。
散々な話である。他人の口に戸は立てられないと言われるが、どこをどうしたところで、
「全ての人を納得させることは難しい、みんな考え方が違う、何をやっても批判をされる、
全員から100点をもらうことはできない」という世間の人々の評価や批評の現実を語ろうとする寓話である。特に多くの人を動かし、公的に大きな力を奮うことのできる立場にいる人には、毀誉褒貶が必ず付きまとうのである。やはり「人は自分の見たいものしか、見ようとはしない(ユリウス・カエサル)」からであろう。期待が大きければ、失望もまた大きいものである。
今日の聖書個所で、主イエスがエルサレムに入城された時の様子が記されている。8節以下「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。凱旋将軍を出迎えるような大歓迎、いや、それ以上に、旧約で最も有名な王、ダビデを熱狂の内に迎えた数多の人々の様子をも、彷彿とされる記述である。ところが、すぐその数日後に、大祭司の庭で「十字架につけろ」と口々に叫んだのも、エルサレムの町の人々であったのである。「人の心のつれなさよ」かつての讃美歌はそう詠った。
ロバは馬と違って体躯は貧弱だが、粗食に耐え、忍耐強く、大きな荷物や人をその背中に乗せ運ぶ健気な家畜である。他方、馬は体格が大きく美しく、それに颯爽とまたがる時には、乗り手の威厳を否が応でも高めたことだろう。見栄えがよく力も強く足も速い。だから、イスラエルにおいても王は軍事用に海外から軍馬を輸入し、飼育したのである。列王紀上5章6節には「ソロモンは戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千を持っていた」と伝えられている(おそらく誇張された数字だろうが)。イスラエルの王も、好んで馬を飼育したことは当然であろう。ところが高低差がひどい地形であり、石のごろごろしている土地柄の聖書の世界では、ひづめに蹄鉄を打って高速に走らせる馬は、実際の生活上ではあまり役に立たない。蹄鉄は石にあたって滑り、踏ん張りがきかないからである。だからイスラエルの人々は、ロバを飼育することを選んだのである。もっとも、現代ならば馬は高級外車という風情であるから、高根の花であったろうが。
そういう背景を熟知していたのだろう、古の預言者はこう託宣を語った。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ 歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ(ゼカリヤ書9章9~10節)」。このメシアは現実の王ではなく、やがて来るべき神からの王、まことの王の「イメージ、幻」である。預言者によれば、イスラエルのメシアは、「馬ではなくロバに乗る」と告知される。それは、神がすべての戦車と軍馬を絶ち、戦弓を折り、すべての民に「平和」を告げられるからである、という。その象徴こそが、「ロバに乗るメシア」である。この預言者のヴィジョンは、聖書の歴史を生きて来た人々にとって、自らの経験に裏打ちされた、「祈り」から生まれてきたものであったろう。それ程、イスラエルの人々は、戦争に脅かされ、戦いに明け暮れる歴史を味わって来たのである。王が馬ではなく、ロバに乗る日こそ、私たちにとって、最も望むべき平和の成就なのだと。
主イエスが、ロバに乗ってエルサレムに入城されたのは、神学的には、この預言者のみ言葉の成就ということができるだろう。もちろんナザレの大工の家に生まれた者として、馬は生活には無縁だったろうし、ロバは物心つかない内から慣れ親しんだ家族のひとりのような家畜だったろう。そして有名は古の預言者の託宣も、よく聞き知っていたことだろう。だからここでロバに乗ろうとしたのもちょっとした遊び心だった可能性がある。たくさんの人々がわざわざ出迎えてくれたのだ。何か一つサプライズをと考えたのかもしれない。この時、主イエスには、ご自身の運命について「十字架」の影が心に浮きつ沈みつしていただろう。やはりそれを慰め、励ますようなものを求めた、それが子ロバに乗る、という行動につながったとは読めないだろうか。
2節「まだ誰も乗ったことのない子ろば」という表現には、宗教的に「無垢」であるという観念ではなく、「未熟」あるいは「貧弱」という意識が込められていると思われる。まだ成長途上か、生まれつきの個性なのか、ひ弱で、力弱く、小さな躯体だから、十分な働きに耐えられない、そんな小さなロバ、というようなニュアンスで、福音書の著者は記している。しかし、主イエスにとって、そのような者こそ、最も自分の歩みにふさわしい同労者とされたということである。人々の大歓声の中、その熱狂とは裏腹に、十字架がちらちらと頭をかすめるような歩みを辿っている主イエスにとって、この小さなロバが、一生懸命に重荷を負って、自分を背負い、歩んでくれている姿に、ご自身が、深く慰められている風情なのである。知ってか知らずか、子ロバはこの時、かけがえのない役を果たしているのである。
私たちの人生もそのようであるだろう。どのように生きても、毀誉褒貶は付きまとうし、「良い」だけで成り立つ人生はないのである。そういうひとり一人の生きる道で、小さなロバを求めた主が、ご自身の働きのために。私たちを呼びかけ、召してくださる。ここに私たちの生きるまことの喜びが、湧き出て来るのではないか。