祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書14章32~52節

「春眠暁を覚えず」の季節、公共の場で「居眠り」を目にする時候である。こんな記事を読んだ「通勤電車の中でうとうとしているサラリーマン。授業中に教室で机に突っ伏している学生。そんな光景は、人前で居眠りをする習慣のない欧米の人からは不思議に思われている。それを示すかのように、『居眠り』という日本語は“inemuri”として英BBCでも取り上げられた。もはや居眠りは一種の日本文化のように扱われている」(慶應塾生新聞2018.4.27)。

「文化」とまで言い誇るくらいに、なぜこの国の人はあらゆる場所で寝ることができるのであろうか。専門家によれば「睡眠負債を抱えた人が日本人には多く、日中の眠気を払うために行っている」と指摘されている。実際、経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で、日本人の睡眠時間は最下位であるという統計がある。そもそも「居眠り」では身体機能の低下を根本的に解消できず、回復するのは一時的な眠気だけで、睡眠不足が続くと心身疾患のリスクは刻一刻と上がっていく、という。さらに一番危険なのは「どこでもすぐに寝ることができると言う人」だという。そのような人は間違いなく身体の負担や睡眠不足を抱えている。実は「怖い居眠り」なのである。皆さんはどうだろうか。本当に睡眠が充足していれば、すぐに寝られるということはないそうである。

主イエスが十字架に付けられる前の晩、主と弟子たちは過越の食事、いわゆる「最後の晩餐」を共にした後に、ゲッセマネ(「油絞り所」という意味だとされる)の園で夜を過ごしたことが伝えられている。主は弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と諭された。ところが弟子たちは皆、眠り込んでしまったという。夜だから「居眠り」とは言えないかもしれないが、睡魔に勝てなかったのだろう。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。

「目を覚ましていなさい」と筆頭弟子のシモン・ペトロに語られたこの警告は、実は彼一人に留まらず、教会のすべての人への戒めとして理解されるだろう。やはり教会にはこの世の「夜警(ものみ)」への役割が与えられている、ということか。この世の不正や虚偽に目を光らせ、人間の堕落を指摘し、真の道に立ち戻らせ、さらには終末、即ち主の再臨の時の到来をいち早く悟り、皆に告知するという余りに重い務めを委託されている、と思うにやぶさかではない。そうはいっても「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか」との叱責を聴く羽目になるわれとわが身であることも、否定できないであろう。「心は燃えても、肉体は弱い」と言い訳をするわけではないが、「夜警」を「監視役」としての務めだけでないという理解を、預言者が語っていることに留意したいのである。

「見張りの者よ、今は夜の何どきか/見張りの者よ、夜の何どきなのか。」見張りの者は言った。「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ/もう一度来るがよい」(イザヤ書21章11節)。ここで朝を待ちわびる巡礼者から「夜明け」を問われた夜警は、明確にその時を告げることはできない。ただ「ほどなく朝が来る」と、希望の到来を告げるのみである。「明けない朝はない」のであるが、それがいつかは自らも不明確なのである。ただ「もう一度来るがよい」と彼は告げる。希望を求める人、つまり痛みと悲嘆に暮れる人と語り、希望の在りかを模索し、ともに祈り求めることが、その役割だ、と旧約随一の預言者が告げるように、教会は彼の言葉を深く思い巡らすべきと考えるのだが、どうか。

「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」、この時の主イエスの心情は、痛いほどに私たちに突き刺さって来るだろう。それでも「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」のである。三度目に語られたこの言葉を、私たちはどう聞くだろうか。口語訳では「眠っているのか」と疑問形で訳出していたのだが、新共同訳では、若干微妙なニュアンスに改められている。主イエスは目を覚ましていられない弟子たちの「不甲斐なさ」を責めているのではない。かといって「呆れている」とか「諦めている」のではなく、「受容している」、との読みがこの訳には込められているであろう。主イエスは弟子たちのあるがままを赦しているのである、と。主もまた十字架への道に苦悩し、それに抗い、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈るのである。ここで主イエスは、弟子たちと同じと所に座って神に向かっているのである。ここに私たちと一つになって、神に祈り、神に向かい、時を過ごす主イエスを見るのである。弟子たちの「居眠り」もここから理解できるのではないか。

こういう小咄がある、ある教会員が牧師に相談した。「教会の椅子を譲ってもらえませんか」。牧師が「家でもその椅子に座り、心を整えようというのですか」と尋ねると、その人は言う「いえね、不眠症で悩んでおりますので」。教会の礼拝でぐっすり眠っている人をしばしば見かける。聴者と対面する講壇からは、その姿がよく見えるのであるが、「大分お疲れになっているのか」との感慨が沸き起こる。「居眠り」が慢性的な「睡眠不足」から来るという専門家の指摘は正しいのだろうが、本来、安心できる場所でなければ、人は眠るどころではないだろう、やはりこの国の治安は、「居眠り」するのにふさわしい状況なのだ。主イエスと共にあるということは、まさにそのような安心を、無意識のうちに味わっているということであろう。その中で私たちはひと時、まどろむのである。

ある牧師が、説教中に寝ている人を起こす「秘訣」を教えている。曰く「その人自身のことを話題にすると、直ぐに目を覚ます」という。「自分のことが話されているのに、寝ていられる人はいない」。すべて他人事、知らぬ存ぜぬで、私たちは自分の人生を生きることはできない。やはりひとり一人は自分の人生の当事者なのである。そして自分の計画通りに行かないのもその実相であろう。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という十字架を前にした主イエスの祈りが、ひとり一人の人生の根底にはある。それを深く悟るのも、主のこころを心とすることである。