ペンテコステ礼拝「霊が語らせる」使徒言行録2章1~11節

吹く風が爽やかな季節である。古来、「風」を詠う歌は、枚挙に暇がないくらい多い。皆さんも、直ぐにいくつか思い浮かぶのではないか。少し前に『千の風になって』という歌が流行った。「わたしのお墓の前で、泣かないでください(中略)千の風になって、吹きわたっています」。この歌によって、「法事」が減少した、という噂もあるくらいである。この国の人々に、風が機縁となって、感慨を呼び起こした、歌のひとつではあるだろう。

随分、古い歌だが『誰が風を見たでしょう』という作品がある。「誰が風を 見たでしょう/僕もあなたも 見やしない/けれど木(こ)の葉を ふるわせて/風は 通りぬけてゆく」。この詩はイギリスの19世紀の詩人、クリスティーナ.G.ロセッティの作品の1つで、彼女の童謡集『Sing-Song』(1872)に収録されている。この作品を、この国のフランス文学者、童謡作家であった西城八十が翻訳し、児童文芸誌『赤い鳥』の大正10年(1921)6月号に掲載して知られるようになった。

ロセッティは、敬虔なキリスト者で宗教的な詩をいくつもものしているが、「風」を単に自然の事物として語っているのではなく、象徴的な意味合いを込めて歌っているのだということが、直ぐに想像がつく。聖書に親しんでいる人ならば、この「風」は、「目に見えないものに目を注ぐ」とか、「風は思いのままに吹く、霊から生まれた者も、同じである」というみ言葉をすぐに思い浮かべるかもしれない。ある著名なこの国のアニメ作家が、自分の描いた作品『風立ちぬ』の中に、この詩を引用して、それに自分の心の応答として1節を付け加えた「風よ翼を震わせて あなたのもとへ届きませ」。

今日は「聖霊降臨日」ペンテコステである。主イエスの復活の50日後(ペンテコステ)に弟子たちの上に聖霊、神の霊が降り、「教会(エクレシア)」が誕生したという。いわば、最初の教会の誕生を記念する日が、今日、ペンテコステなのである。その時の様子を、今日の聖書個所は次のように記している。1節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

聖霊が「激しい風、大きな音・響き、炎」といった事物によって象徴的に描き出されている。おそらく著者ルカは、旧約の詩104編3~4節のみ言葉を思い起しているのであろう。「(神は)雲を御自分のための車とし/風の翼に乗って行き巡り/さまざまな風を伝令とし/燃える火を御もとに仕えさせられる」。神の乗り物は、雲であり風である。さらに風をみ言葉を伝える伝令(使いの者)とし、燃える火を(み言葉のための)助け手とする、というのである。激しい風が、神の言葉を運び、人はその大きな音を聞き、その音は人の心に、火をつける、ということなのだろう。

ペンテコステの出来事は、大きな音から始まった。音の出来事だった、というのである。世の中は、いろいろな音で満ちている。この頃、明け方前、午前3時過ぎになると、ホトトギスの鳴き声でふと目が覚めることがある。「キョキョキョ」というけたたましい音である。古の人は、夜明け前の、いささか耳障りなこの鳥のさえずりを、「亡くなった人の魂を冥界に案内する声」として聴いたとのことである。

ニューヨーク公共図書館は、さまざまな革新的な試みをしてきた民間の図書館であるが、このコロナ禍の最中に、ある音のアーカイブスを提供している。「ニューヨークの失われた音」と題されたアルバムで、HPにはこう記されている「私たちにとってお馴染みの、大好きなニューヨークにワンクリックで行くことができます。バーでグラスの割れる音、地下鉄でのダンスパフォーマンス、熱狂的な野球ファンの応援、タクシーの音、鳩の鳴き声、自転車のメッセンジャーの声、見知らぬ人のうわさ話、地元の図書館の喧騒。どこにいてもあの懐かしい街にいることができます」。コロナの前では当たり前のように何時も耳にしていて、日常生活の一部、わたしの一部だった音を、あらためて提供することで、今はコロナによって失われている音を記憶によみがえらせ、心にウイルス終息の時への希望の灯を点そうというのである。

この試みは、使徒言行録が伝える、「ペンテコステの出来事」に繋がっている。主イエスが十字架に付けられて、3日目に復活の喜びが伝えられる。復活の主は、その懐かしい姿を弟子たちに顕わされたが、40日後に、愛する者たちと別れ、天に上られ見えなくなった。主が取り去られる体験は、彼らに大きな喪失をもたらした。主の福音、主イエスが様々な時と場所でさまざまに語られた福音、「喜びの音信」、喜びをもたらす懐かしい「音」が、失われてしまったからである。

「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」、神の起こされる激しい風の音が、弟子たちの上に響きわたり、彼らはその音を聞いたのである。その音は、やがてひとり一人の上で炎となり、堅く沈黙していた魂が温められ、熱を与え、ついに「“霊”が語らせるままに、ほかの言葉で話しだした」。新共同訳では「ほかの国々の言葉」と訳されているが、原文には「国々」という用語は記されていない。人間はことばで生きる存在だから、これまでも仲間内で、いろいろ主イエスの思い出や、懐かしい出来事を思い起こし、それを静かに語り合って、別離の悲しみを癒そうとしたことだろう。しかし外への恐れのために、部屋に籠って扉には堅く鍵をかけて、ひっそりと生きていたのである。いわば、内輪だけで通じる言葉で生きていたのである。しかし、大きな風が吹くような激しい音が、その厚い壁を、堅い鍵のかかった扉を、打ち壊したのである。彼らは「ほかの言葉」つまり「新しい言葉」「外に向かって語り出す言葉」を与えられたのである。

この大きな音を聞き、弟子たちが語り始めた、今までと違う言葉、新しい言葉を語り始めたのである。それを聞いた人々、世界のいろいろな所からやって来ていた人々は、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられ」たというのである。弟子たちの語る「言葉」を、懐かしい、自分の故郷の言葉として聞いた、言葉を変えれば「魂に直に響いて来る」言葉として聴いたのである。私たちは、同じ国で生きる者でも、出自が異なり、人生経験は異なり、その人自身にしか知りえない歩みをして、今に至っている。そういう別々の私達が、主イエスのみ言葉を、実に「(魂の)故郷の言葉」として聴いて、ひとつになるのである。

神戸栄光教会では、この10年程、ペンテコステ礼拝の度に、次のリタニー(交祷)を行っているという。題して『この風を止めることはできない』

一 同:この風を止めることはできない。この炎を止めることはできない。

司会者:この風は真理の風。この炎は愛の炎。風は吹くことをやめず、炎は燃え続ける。

会 衆:紀元1世紀のローマ皇帝たちよ/あなたたちは、この風を止めることはできなかった。あなたたちは、この炎を止めることはできなかった。

司会者:皇帝たちの嘘も、彼らが放ったライオンも/この風を止め、この炎を消すことはできなかった。どんなに真実を覆い隠そうとも、その真実の力を止めることはできない。どんなに愛を消そうとしてしも、その愛は生きて働いている。

会 衆:現代のローマ皇帝たちよ/あなたたちは、この風を止めることはできない。あなたたちは、この炎を止めることはできない。(中略)

司会者:信仰の炎が揺らぎ、消えかかるかも知れない。しかし消えてしまったのではなく、繰り返し、繰り返し炎は新しく燃え立とうとする。

会 衆:無関心と不安と不信仰の霊よ/おまえたちは、わたしたちを姉妹・兄弟から分かとうとし、わたしたちのいのちを助けようとするものを邪魔するが、この風を止めることはできない。この炎を消すことはできない。

このペンテコステの風は、目には見えないが、この教会にも、地域にも、この国にも、そしてウクライナやロシア、ミャンマーにも、吹きわたっているであろう。神の言葉、即ち神の力を載せて吹く風は、常に新しい言葉を運んで、出来事を起こされる。「この風を止めることはできない。この炎を消すことはできない」。