祈祷会・聖書の学び 列王記下23章21~30節

ある年代以上の世代にはなつかしい「シングル盤レコード(45rpm)」、別名「ドーナツ盤」、好きな歌手の歌を、なけなしの小遣いを貯めて購入した思い出のある方も多いだろう。A面、B面の表裏二層に曲が入っており、レコード会社の「売り」の曲は、大体A面に入れられていたが、時には予期せずB面の方が話題になり、売れることもあった。

そんな発想で制作されたかどうかはわからないが、『ふたりのももたろう』(作・木戸優起、絵・キタハラケンタ、2021年刊)という面白い絵本がある。従来のいわゆる「鬼退治の話」(よく知られているかつての物語と比べると、話の流れに大きな違いがあるのだが)を読み終えると、蛇腹に折り畳まれたページの裏側に描かれた、「別の物語」が始まる仕掛けである。丁度、懐かしいシングル盤の風情である。

作者の木戸氏は、自らの作品についてこう語っている。「A面はおばあさんに拾われる一般的なももたろうです。B面は、たまたまおばあさんに拾われず、おにに育てられるももたろうが登場します。この設定により、『偶然、何かが違っていたら相手の環境になっていたかもしれない』という感覚を伝えたかった。まずその感覚を得ることが、相手の立場で考えることに繋がると思っています」。その言葉のように、川でおばあさんに拾われなかったもう一つの桃があり、海に浮かぶ島に流れ着く。その桃から生まれた男児は鬼たちに可愛がられて育つが、ある日、自分には角がないと気付き、疎外感を覚えて泣いてしまう。でも、鬼たちはどこまでも優しい。「違ってもいいじゃないか」。

さて列王記は、申命記的歴史家の手になる著作のひとつと考えられている。それは申命記から列王記上下までの諸文書を壮大な歴史物語として編集したイスラエルの最初の歴史家のことである。そして彼(彼ら)は、ヨシヤ王の宗教改革を、イスラエルの歴史の分水嶺として見ているのである。列王記下22~23章は、ヨシヤ王の治世と彼の在位中に起った「申命記」発見から改革に至る経緯を記すものである。

さて、今日の聖書の個所は、「ヨシヤ王の宗教改革」のその次第を伝える記事である。列王記を記述した史家の目から、この王は「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」(22章2節)と評され、さらに「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」(23章25節)と評されている。イスラエル・ユダの諸王たちの中で、彼ほど最大限の賛辞を与えられている王はいない。この評価に託して、申命記史家の価値観が端的に読み取れるであろう。

この評判の高い王は、前 640頃~609年まで、弱冠8歳にして即位し 31年もの間、南王国ユダを治めたとされる。とりわけ彼は「ヨシヤ王の宗教改革」、別名「申命記改革」と呼ばれる徹底した改革を行なったことで有名である。その発端は,前 622年エルサレム神殿の改修工事中に、大祭司ヒルキヤが律法の書を発見したことに始まるとされる。彼はこの契約の書の言葉を、ユダとエルサレムのすべての民,祭司,預言者たちの前で読み上げ,さらに女預言者フルダの託宣に従って、主ヤーウェの前に契約を立て,主に従って歩み,心を尽し精神を尽して主の戒めと,あかしと,定めとを守り,この書物に記されている契約の言葉を行うことを誓った。さらに異教の礼拝所、聖所を廃止し,「ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した」(23章24節)と伝えられるように、異教的な習俗をことごとく禁じ、主ヤーウェを礼拝すべき場所を、エルサレム神殿ただひとつに集中したのである。

ただこの辺りの経緯を冷静に受け取るならば、王を始めてとして、彼の側近たちの振る舞いを見ていると、あまりに道具立てが揃い過ぎていて、事前に台本がしっかりと設えられ、それに則って演技をしているような印象を受けるのである。神殿改修中に発見されたという「律法の巻物」も、余りに都合が好すぎて、発見されるべくそこに埋められたものと考えた方が、妥当であろう。僅か8歳にして即位し、31年間という長期にわたる統治の背後に、幼い時から彼を養育し、教育を施し、方向付けたグループが存在したことが伺われる。彼らは「申命記」な価値観を持つ人々、即ち、ヤーウェ主義的色彩の強い、異教排斥者であり、イスラエル信仰の純粋さを追求する人々であり、彼らの思想の集大成こそ「申命記」であって、ヨシヤ王もこれを教科書のようにインスパイアされて成長したのであろう。彼の統治の時期は、それまで王国が従属していたアッシリア帝国の衰退によって、一時独立を回復した期間である。この時とばかりヨシヤ王とそのブレーンたちは、ユダ王位国の立て直しの為に、後に「申命記改革」という宗教的ナショナリズムを高める政策を行って、王国の刷新を図ろうとしたのであろう。

ヨシヤ王の改革は、「偶像礼拝の禁止、地方聖所の廃止、律法の遵守」という非常に具体的なスローガンを伴った非常に正統的な復興政策であったことが知れるが、今日の聖書個所では、こう記される。27節「主は言われる『わたしはイスラエルを退けたようにユダもわたしの前から退け、わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの神殿もわたしは忌み嫌う』」と語られるのである。人物評とは裏腹に、ヨシヤ王が行った「宗教改革」プロジェクト自体に対する評価が、ここに意味されているだろう。

さらに彼の最期については、こう記されている「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王に向かってユーフラテス川を目指して上って来た。ヨシヤ王はこれを迎え撃とうとして出て行ったが、ネコは彼に出会うと、メギドで彼を殺した」。非常に不可解に映る王の最期である。ネコが、息も絶え絶えな獲物をなぶって遊ぼうというくらいの腹積もりでやって来たのに、余計な手出しをすれば、引っかかれるのが落ちである。こうしたエピローグをわざわざ付け加えるのも、この歴史家が、確かに「申命記的歴史観」といういささか偏狭な価値観を有する資質の持ち主であっても、そこはそれ、「歴史家」なのである。聖書の価値観、ものの見方は、決して一枚板ではなく、多様な側面を表裏相見ることで、成り立っているのであり、この歴史家も、そのような感覚を内に宿しつつ、自らの歩みを回顧しているのであろう。「極端」はまた未熟のなせる業である。