「お定めになった計画」使徒言行録2章22~36節

皆さんはいつも「手帳」をもって生活されているだろうか。「年金手帳」あるいは「お薬手帳」とか連想されるが、日々の予定を記した「忘備録」を使って、こまめに生活されているか、それとも「もうその日暮らしだよ」と言われるか。そういう人は、聖書に最初に登場する人、アダムに似ているとも言える。彼は神から言われる「すべての木から取って食べなさい」(創世記2章16節)これは英語の聖書で“from hand to mouth”「手から口へ」と訳されるが。慣用句として「その日暮らし」を意味する。聖書ではエデンの園の生活は、まさに明日の心配をすることのない、「予定」や「納期」とは無縁の生活こそが、生きる「幸い」と見なしている節がある。

こんな文章を読んだ「沖縄に来てから数カ月たったころ、あることに気付いた。あの人もこの人も、手に持っている手帳には『沖縄手帳』とのロゴが記されているではないか。さては沖縄県から手帳が支給されるのだな。欲しいな。そう思っていたが、しばらくして業者の方が沖縄手帳の営業にやって来て、売物であることを知った。ここまで多くの人が、同じ手帳を購入して使われるとは、逆にまたびっくりだ」。「なんくるないさー」で生きているイメージとは少々異なるかの地の生活スタイルを知らされたように思う。

「沖縄はお盆や正月など、旧暦で行事を行うため、旧暦記載がある沖縄手帳を使うのだという。その翌年から自分も見よう見まねで、沖縄手帳を使い始めた。その後10年は使っているが、振り返れば一度も旧暦を確認したことがない…。親戚が誰1人としておらず、旧盆などの行事はいまだ見たことすらない。そもそも必要な場面がないのである」(森本浩平「南風」5月30日付)。

さて、ペンテコステ、五旬祭の日に、弟子たちに聖霊が降り、この世にキリストの教会が誕生した。その最初の日の出来事に続いて、その出来事にたまたま居合わせた人々に対して語られたペトロの言葉、発言が、今日のテキストである。これも教会で行われた最初の「説教」とも言えるだろう。教会が人々に宣べ伝えた、その最初の言葉がここにある。彼は何を語ったのか、確かに異様な出来事にいぶかしく思って集まって来た人々に対してであるが、殊更、ペトロの話を聞きたくて、自分の方から集まってきたわけではない。偶々そこに居合わせた人々に、彼が何を語ったのか、これは今日の宣教を考える上でも、重要な事柄であろう。

「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。実に真っすぐに、掛け値なしに、主イエスの公生涯を端的に叙述するのである。結局、私たちの語る所は、何によらずただ主イエスに集中するしかないのである。そして、その生涯の極みは「十字架につけられて殺される」出来事なのである。

主イエスの生涯は、齢35年程のものではなかったか、と考えられている。平均寿命の短い古代だったとはいえ、余りに短い一生だったということができる。しかも、その最期は十字架刑による無残な終わりなのである。長寿そして子孫繁栄こそが最大の神の祝福、と見なされていた時代であり、しかも十字架はそれと真反対の「神に呪われた者」への報いのしるしであった。一般にこうした悲惨な人生を、どのように受け止めれば良いのか。

ある牧師がこのような想いを語っている。「私の父は48歳で死んでいます。私の家内の父は、もっと若く、46歳で死んでいます。二人とも、いまや人生佳境にいり、これから仕事を完成に向けよう、果たすべき責任を果たしていこうという時、そしてしたいことがふんだんにある、まさにその時に死んだわけです。それは中断された人生であった、と言ってよいと思います。おそらくはどなたでもそういうことがあると思いますが、私は、あと10年もすれば自分も死んだ父親と同じ年齢になることを思い、この「中断される人生」というものがあるということを考えざるを得ないのです。一体そこで悔いなくその人生の中断を受けとれるでしょうか」(近藤勝彦『中断される人生』)。

このひとりの牧師は、自分のごく親しかった家族の人生の歩みを通して、生きることへのあからさまな相を深く洞察するのである。人にはそれぞれの齢、寿命というものがある。健康管理や生活習慣という要因があるにせよ、運命と呼びうるような要素があるように思える。皆、同じスタートラインに立って、同じ道のりを始めるのではない。しかし、どのような人も、生まれて来たからには皆、夢があり展望があり、何ほどかの希望を持つだろう。ほとんどの人は、それ程確かにその形をはっきりと意識する訳ではないが、漠然とはいえ自分なりの生きる手ごたえ、生きがいをどこかに感じて、それを励みに日々歩んでいく訳である。決して大それた野望などというものではなく、大方はごくささやかな類のものである。だが祈りとも言えるそれが、そう願いつつもそのまま平安の内に推移して行くかと言えば、いつもそうであるとは限らない。「中断」という事態である。内から外から訪れて来る何ものか、健康であったり、事故であったり、突発事態であったり、運不運と呼べるような様々な要因によって、自らの思い描くスケジュール通りに行かない「人生の中断」が起って来る。そうした「中断」をどう受け止めればいいのか。

先の文章はこのように続けられる。「聖書はしかも、この(中断という)事態をある人々だけの特殊なケースとして見なしているのではありません。『中断される人生』は、実は万人の真相だと言ってよいと思うのです。私たちは、まだまだしたいこと、なすべきことがあり、いまどうしてもこれをしなければならないというまさにその時に、その営みを中断される、ということが起こるのです。否、それがすべての人生です。このことに一体どのようにして私たちは、耐え得るでしょうか」。

ペトロは最初の説教において、主イエスの生涯について、十字架というその中心を語った、否、語らざるを得なかった。それしか語ることがなかったとも言えるだろう。私たちもそうである。必ず「十字架」という事態が、誰の人生にも生じて来る。「このことに一体どのようにして私たちは、耐え得るでしょうか」という問いの前に必ず立たされるのである。その人はこうだった、あのひとはああだった、己の身の上と引き比べてあれこれ考えることはできるが、それで耐えられるかといえば、気休めにはなるかもしれないが、どうにかなるものでもないだろう。思い通りにならない、しかも中断され、一方的に方向転換させられる人生に、どのような意味と慰めを見いだせばよいのであろうか。運が悪い、仕方がない、そういうものだと言うだけなのか。

ルカは十字架に至る主イエスの歩みを、23節「このイエスを神は、お定めになった計画により」と表現している。これは優れた歴史家であるルカの歴史の見方が、端的に述べられている章句でもある。旧約の神の民の長い歴史の歩みから始まって、神の独り子、救い主であるナザレのイエスの誕生、そして公生涯、そして十字架という最期もまた、それらすべては「神の計画」の表れなのである、と。そしてその「計画」は、必ずしも人間の思い描く期待にぴったりと来る図式に従って、繰り広げられるものではない。

主イエスの十字架について、「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、(主イエスを)十字架につけて殺してしまったのです」とルカは記す。つまりそれは「実に不条理な死」であり「わたしたちの罪」のゆえであったと語るのである。「貧しい者は幸い、悲しむ者は幸い、憐れみ深い者は幸い、迫害される者は幸い」と主イエスは教えられた。しかし人々は、愛を語る主イエスの生き方を認めたくなかった。そんなあり方は都合が悪かったのだ。力こそ正義であり、弱い者は強い者に従い、小さい者は大きい者のいうことを聞き、長いものには巻かれろ。今もなお自分たちの生存が脅かされるとばかり力を誇示するための戦争をおこない、その極みである核兵器によって、平和を実現できるとうそぶくのである。人間は自分の計画に従って、「救い主」を十字架につけて殺したのである。

人間は、自らの歴史において、自分の計画をいろいろ思い描き、その実現のためにいろいろな画策を行ない、さらに実行して来た。ある歴史家が言うように「この地上に自分たちの天国を造ろうと努力して来た」のである。そしてそこに生まれてきたのは何であったか。今に至るまで戦争は繰り返され、子どもたちをはじめ弱い者たちは踏みつけにされたが、強い者たちもまた永遠ではなかった。さしものローマ帝国も滅んだのである。そのような人間の歴史の転変や結末、変遷をルカは冷静に見て語っているのである。

ペトロの説教から、私たちは人生の主人は、結局は自分自身ではないこと、自分の人生の主は、自分自身ではなく、神こそわが人生の主であるという厳粛な事実を学ぶのではないか。大げさに言えば、私たちはいわば人生における「中断」を、毎日曜日ごとに経験し、神こそわが人生の主だ、ということを新しく体験するのである。そこで聞くことは24節「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえない」ということなのである

そして私たちの人生を中断させ、しかも新しく始めさせる方は、27節「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」ことを知らされるであろう。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きる』のである。