祈祷会・聖書の学び エゼキエル書34章17~31節

脚本家の向田邦子さんが宿題の話を残している。「いい年をして、いまだに宿題の夢を見る」と書き出すエッセーは、軽やかな文章で親子の情愛がつづられている。エピソードの一つに登場するのが「桃太郎」の全文をノートに書き写す宿題。朝になって思い出した向田さんは、温かいおひつの上でべそをかきながら書いた。「そのせいか、今でも、桃太郎というと、炊きたてのご飯の匂いを思い出して困ってしまう」と。(6月17日付「有明抄」)。

「三つ子の魂、百まで」という諺がある。小さい頃の体験は、根強く身体と心に染み入り、その後の人生に強い影響を与え続けるものだ、というのである。皆さんは、どのような「原体験」をお持ちだろうか。

今日の聖書個所は、エゼキエル書34章である。この長大な預言書の中でも、比較的よく知られている個所であり、聖書時代の人々にも、周知で馴染み深い預言の言葉であったろう。「羊と羊の群れ」、そして「羊飼い」のことが話題にされているが、聖書の世界の原風景とも言うべき情景が語られている。聖書の人々にとって、これ以上、身近なものはないというくらい、幼いころから慣れ親しんだ生活風景だったであろう。羊飼いに丹念に世話をされて、羊の群れがのんびり草を食み、ゆるりと泉の水を飲み、安心して養われている。そういう風景こそ、平和と繁栄の象徴であろう。

ところがエゼキエルの語る風景は、そういう「平和と繁栄」とは真逆の、「収奪と暴力」の光景なのである。羊飼いは、自分の腹を肥やすためにだけに行動し、群れの世話を放棄し、過酷に支配し、傷つき、弱った羊を虐待しているのである。さらに、そのように情けない羊飼いによって導かれた羊たちもまた、牧草地と水場を汚し、与えられた美しく豊かな牧場を荒廃させ、仲間の羊を邪険に扱うのである。エゼキエルの語るこの物話は、たとえ話であり、捕囚の憂き目にあった南王国、ユダの社会の現実を、羊とその群れ、そして羊飼いに託して語っているのである。この譬えを聞いたユダの人々は、どんな気持ちだったであろうか。自分たちの苦難が、祖国の崩壊が、起こるべくして起きたことを悟って、深く哀しみ、嘆いたのではないだろうか。

エゼキエルのこの個所のみ言葉を目にすると、私たちは、必ずある有名な譬話を思い起こす。これよりもずっと短いが、物語要素をそのまま凝縮したような、印象深い、小さな物語。そしてその小さな譬話を聞いた人は、エゼキエルのこの個所をすぐに思い浮かべたことであろう。それは主イエスによって語られた「いなくなった羊」の譬である。

確かに主イエスは、お話の大家であり、折々になされた譬話は、それを聞く人々の心を、すぐにわしづかみにするほど、印象深かったであろう。だからこそ福音書の中には、たくさんの主イエスの譬話が、伝承され掲載されている訳である。主イエスの語りの技術は卓越していたことに間違いはないが、こうした旧約の言葉を目にすると、主イエスの話の元ネタが、どこにあるのかが了解されて、聖書文学の拡がりを目にするようで、非常に楽しく感じられる。つまり、主イエスも幼い時に、あるいは少年時代、旧約の物語や、預言の言葉を大人、おそらく律法学者や長老から、繰り返し聞かされて、み言葉と共に成長されたことが、こういう個所から知れるのである。そして逆に、エゼキエル書を手掛かりに、主イエスの譬話をさらに深く味わうことも、可能になるであろう。

主イエスの「いなくなった羊」の譬は、百匹の羊の群れの内、一匹がいなくなり、失われたと語られる。では、どうしてその一匹はいなくなり、失われたのか。その理由は何か。

主イエスは短い譬の中では、その理由を語ってはいない。だから私たちは、いろいろな想像を働かせて、理由付けを試みる。例えば「その一匹はわがままで、自分勝手な行動をしたのだ。群れからはぐれたら、野獣に襲われるかもしれず、生命の保証はない。本当なら自己責任で片付けられる話だ」、と。

エゼキエルは「失われた羊」についてこう語るのである。20節以下「主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった」。つまり失われた羊は、他の大勢の強い羊によって、「外に追いやられた」ゆえに、失われたというのである。おそらく主イエスは、エゼキエルのこの預言を念頭に思い浮かべながら、ご自分の譬を語っているのだろう。

主のこの譬話について、よく投げかけられる疑問は、「九十九匹を残しておいて」と語られる部分である。「残す」という用語は「放置する」とも訳すことができ、ある意味では「懲罰」的な印象を与える言葉である。「そんなことをすれば、九十九匹の安全はどうなるのですか」と言われるかもしれないが、エゼキエルの言葉を想起しつつ、語っておられるとしたら、どうだろうか。「弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、外に追いやる」、かつての南王国の社会の有様が、明らかに目に浮かぶようで、心が震えて来る。その社会に生きて来た人々の結末が、「バビロン捕囚」であった。弱いものを「外に追いやる」ようなあり方は、自らも外に追いやられる運命をたどるようになるのは、悲しいが当然かもしれない。

しかし、エゼキエルもまた、「外に追いやられた」羊のために、「ひとりの牧者」が起こされ、遣わされるという。25節「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする」のだという。さらに捕囚によって異国の地バビロンで生活するのを余儀なくされた人々に、「お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」(31節)と主なる神は言われるのである。

ひとり一人は「神の群れ、神の牧草地の群れ」であり、神は私たちを「人間」であることを弁えておられる。即ち、誤りやすい、罪を犯す存在であることを知っていて下さり、そのひとり一人を導き、「群れ」としてくださるというのである。それが「神」としての証なのである。

今週の聖日に、この教会は創立45周年を迎えた。まだよちよち歩きの赤ん坊のような教会である。しかし「失われたひとり」を捜される主イエスが与えられ、み子が羊飼いとして私たちを群れとして養ってくださる。この教会もまた、そのようにしてこの地に立てられていることの幸いを心深く覚えたい。