祈祷会・聖書の学び ダニエル書5章1~12節

随分、以前のことだが、時の首相が、国会の答弁で漢字の読みを、度々間違えるというので話題になったことがある。「云々」を「でんでん」、「未曽有」を「みぞうゆう」、また「背後」を「せいご」等と読んだ。この話題を受けて、ある俳句雑誌に次の一句が投稿されたそうである。「ダニエル書の手よ生(あ)れ『背後』にルビ振るべし」。

キリスト教の雑誌でなくても、聖書の言葉が利用されることは、ままあるだろう。この国に聖書の翻訳がなされてから、一世紀以上の時を経ている。たとえキリスト者でなくても、聖書に親しんでいる人は、少なからずある。しかし先の句の意味が、すぐに了解できる人は、余程、聖書の内容に通じていると言えるのではないか。今日の聖書個所を繙けば、誰しも成程と頷かれることであろう。もっとも教会学校の分級では、必ず披露される紙芝居の題材でおなじみの場面ではあるが。

バビロニア王、ベルシャツァル(ネブカドネツァルの孫)は、自分の臣下である多くの貴族を招いて、大宴会を開き、珍味佳肴で酒を飲んでいた。宴が進むと興に乗り、父王がエルサレム神殿から奪ってきた祭具である、金銀の器を取り出させ、王や貴族、女たちはそれで酒を飲みながら、金銀銅鉄木石などの偶像を讃え始めたという。

ベルシャツァルが開いたとされるこの大宴会場は、遺跡の考古学的発掘によって調査されており、「19m×52m」の面積を持ち、聖書に記されるように、壁は漆喰で仕上げられた『白壁』になっていたようである。何とも広大な空間だが、家臣を集わせ、己に忠誠を誓わせ、さらに海外からの使節や賓客をもてなすとともに、帝国の繁栄と権力、財力を併せて誇示するための装置こそが、この大宴会場が置かれている所以である。「巨大な白壁」はホリゾントの役割を果たし、王の威厳を高める上でも、演出効果抜群である。

大抵、祭具というものは、専ら宗教儀礼のためのみに用い、神への供応を目的とするため、およそ神聖なものとみなされる。それを奪うことは、相手国の守護神を捕らえ、貶めることにつながる。さらに、神殿から略奪した祭具で飲酒するというのは、敗戦国の神と人に対して、絶対的な勝利を誇示することでもある。その宴もたけなわの時に、突然、手の指が現れて、ともしびに照らされている王宮の白壁に、文字が記されたのだという。

ダニエル書の前半の物語部分で、最も有名な部分である。話の展開も、舞台設定も見事にしつらえられた文学ではないか。読む者の、あるいは話を聞く者の想像力を否が応でも掻き立てる道具立てである。巨大な白壁を背景にして、手指だけが蠢き、謎の文字が記されていく。まして古代の人は、文字に魔力のような神秘の力を認めていたから、猶更ホラーである。

現代の先端技術を用いれば、虚空に文字を浮かび上がらせ、それを視聴させることくらいは朝飯前だろう。ダニエル書の時代は、古代であるから、確かに、科学技術は当然、未発達である。しかしバビロンの王宮、王の謁見室等の復元予想図を見るなら、どういったものが人間の精神や感覚に強い影響を与え、心理を動かすのかが、既に綿密に計算されていたことが分かる。ところが、ダニエル書のような中空に浮かぶ、あやしい手指と謎の文字、という大胆な発想は、どこから湧いてきたのだろうか。聖書文学の独創性を示す証左といって良いかもしれない。

手指が書いた謎の文字は、ダニエルによって明らかにされる。25節「メネ メネ テケル ウ(そして)パルシン」。この言葉を、何度か声に出して、繰り返し読んでみるといい。たとえ聖書の言語をまったく知らなくても、この言葉の持つ音の響きには、何かしら心に不思議な印象を与えられる。まずリズムがある、そして音が耳に残る、そして呪文のように、この言葉が頭から離れなくなる。

この言葉を唱えていると、いろいろに想像の翼が拡がって楽しい。もしかしたら子どものざれ歌が元かもしれない。市場での商取引の際の、掛け声をまねて遊ぶ、子ども達の様子が目に浮かんでくる。「ままごと」に代表されるように、子どもの遊びは大人のやっていることの「模倣」である場合が多い。なぜ商取引なのか、「メネ」とは「数える」という意味であり、「テケル」は「量る」、そして「パルシン」は「半分(半額)」という意味である。いかにも市場の商人たちが、威勢の良い掛け声を上げて客を呼び込み、景気をつけて売りつけようとする雰囲気が、漂っているではないか。「どんだけでも売るよ、数えるよ、量るよ、よその半額でどうだい!さあ買った買った」という具合である。

古代の宴席には、余興のために歌や踊り、奇術、滑稽なしゃべくり等も、珍味佳肴と共に供せられるのが常であった。「謎かけ」もまたありふれた余興のひとつであった。謎の答え、軽妙洒脱で、意外な答えを聞く時、人は知的な刺激を受け興奮し、心から楽しむのである。宴席に「謎」が投げかけられるというのは、いかにもその場にふさわしい。「謎とき」には「知恵」が必要であり、それは知恵の「勝負」の場でもあった。但し、謎が解明されず、謎のまま残ってしまったら、人は知恵の消化不良に陥り、心が鬱屈するであろう。ミステリで犯人がまったく明らかにされないとしたら、だれがそんなものを読むだろうか。

しかし、王宮にはこの謎の言葉を解き明かせる者がいない。そこで白羽の矢が立ったのは、捕囚の民のひとり、ヘブライ人のダニエルである。以前にネブカドネツァルの夢解きをして評判を取っていた、その人物の名が挙がったのである。彼は白壁の文字を見るや、王の運命をそこから読み取る。「王の業績は数えられ、その価値が計られ、この国は2つに引き裂かれる」。その言葉は、バビロニア帝国の終焉を予言する呪いの言葉であった。「その同じ夜、カルデア人(バビロニア人)ベルシャツァルは殺された」(30節)とその結末が伝えられている。

「人間の傲慢が自らを滅ぼす」という教訓が、この物語の背後に語られているだろう。それは大帝国の王とても、例外ではない。今も人間は、「傲慢」の罪を常に犯し続けており、それに全く気づかない、という更なる罪も加わっている。確かに「傲慢」に対する裁きは語られているが、ただ敵への裁きだけを聖書は告げているのではない。異邦の王、傲慢なベルシャツァルに対しても、神はそのみ言葉を送るのである。信、不信を問わず、すべての人間に、神はみ言葉を語りかけるのである。言葉なしに何かを為されることはない。

白い壁に映し出された謎の言葉を、今、私たちは見ることは出来ない。しかし私たちは人生の歩みの中で、心の白壁に記されている主イエスのみ言葉を、繰り返し見て、読んで味わい、それを手掛かりにして、人生を歩むことができる。神の手指は、今も、的確に、今、私が必要としている「生きているみ言葉」を、記してくださるのである。