「霊は送り出した」マルコによる福音書1章12~15節

1995年、みなさんが生まれた頃、狼たちはイエローストーン国立公園に再び放されました。7年間ずっといなかった後のことです。その頃、鹿の数はとても増えていました。なぜなら鹿の命を脅かす存在がなく、彼らが食物連鎖のトップに君臨していたからです。鹿たちは草木を食べ尽くし、川岸は侵食されました。そこに狼たちが現れると、狩りをして鹿たちの数を減らすことになりました。けれどもっと劇的だったのは、狼の存在が鹿たちの行動を変えたことです。賢いことに、鹿たちは谷を避けるようになり、その付近の草木が生え始めました。たった6年間で木が5倍にも増えたのです。鳥やビーバーが引っ越してきました。ビーバーたちが作った川のダムはカワウソやカモ、魚たちにとっての住まいを与えました。動物の生態系が再生したのです。でもそれだけではありません。川も変わりました。植物が再生したことで、河岸を安定させ、決壊を抑えられるようになりました。川が安定したのは全て狼たちの存在のおかげです。ここで何が起こったのか分かりますか? 生態系にとって脅威であった狼たちが救済となったのです。

この文章は、米国の元サッカー選手、アビー・ワンバック氏(女子代表チームの絶対エースとしてワールドカップ(W杯)を制し、五輪では2度の金メダルに輝いた)が、母校の大学の卒業式で語ったメッセージの一節である。その題は「従順な赤ずきんではなく、狼となれ」。性別、肌の色、人種による格差が、人生を犠牲にしている。それは取り分け「賃金」という形で如実に現れている。そこから「狼」というメッセージが語られるのだが、「狼になる」とは「喩え」であって、私たちの現実世界では、どういうことなのか、しばし思い巡らしたい。

「狼」という野獣がいることで、自然が安定した秩序を回復する。「生態系にとって脅威であった狼たちが救済となったのです」という言葉をどう理解するか。よく自然の秩序について「弱肉強食」という原理が語られる。しかし強い者が常に弱い生物の上に君臨し、勝手気ままにふるまい、弱い者は一方的に踏みつけられ、食い物にされ犠牲になる、というのは、生態系、つまり生命の繋がりから見ると、余り正鵠を得ていない。「弱肉強食」の原理は、実は自然を逸脱した人間の世界にこそ当てはまるのではないか。

先週の水曜日、「灰の水曜日」から、私たちは今年の「受難節(レント)」を迎えた。その第一聖日の聖書日課は、伝統的に、共観福音書それぞれに記される「荒れ野の誘惑」の物語が読まれることになっている。なぜこの個所が読まれるかと言えば、物語が「40日40夜の出来事」として伝えられているからである。初代教会において、復活祭に洗礼を受けようとする洗礼志願者は、一定の期間、毎日教会に集まり、講話を聞き、悪霊祓いの式にあずかり、断食、節制に努めていた。この習慣が後には信徒たちにも広がり、四旬節の40日間の節制に努めるようになったのである。この期間を過ごす始めに当たって、やはりふさわしいテキストとして見なされたことは当然であろう。私たちが受難節において、断食をし、節制しつつ過ごすのは、主イエスの宣教に先立って、荒れ野で試みに会われたことを、心深く覚え、私たちもまた追体験するのであると。

さて、各共観福音書に記される「荒れ野の誘惑」の物語は、どうやら2つの形態で教会に伝承されて来たようだ。ひとつはマタイ、ルカ福音書の記事のように、主イエスと悪魔との詳しいやり取りが記されている伝承、「人はパンだけで生きるものではない」という有名なみ言葉がある。もうひとつはマルコ福音書の、非常に簡単な伝承である。但し、初めにマルコの記事が先にあり、それが後にマタイ、ルカの記事のように、詳しく敷衍されたというのでもなかろう。やはりこれら2つの伝承には、それぞれ別々の意図やメッセージが込められていると言えるだろう。

マルコ福音書の記述の特徴は、この短いパラグラフ(伝承)の中に、いくつもの登場人物?が配置されていることである。それらの登場人物は、特に目ぼしい活発な動きをするわけではないが、そこ、つまり「荒れ野」という舞台に、静かに置かれているといった風情である。もちろん主イエスが主役であるが、それを取り巻くように、「サタン(悪魔)」がおり、主を誘惑し、そしてその荒れ野には、「野獣」がおり、「天使」が仕えているという構成である。

このドラマの中で、最も活発に大きな動きを見せているのは、「霊(聖霊)」である。そもそも主イエスが荒れ野に赴いたのは、自分の意志や決断ではない。「“霊”は主イエスを荒れ野に送り出した」と記されるが、「送り出す」と訳される用語は、多くの翻訳者が「追いやる」と訳しているように、「追いやる」「投げ出す」というような非常に激しい意味合いの言葉である。ここから「聖霊はイエスを訓練するために、彼を荒野に放り出し給うた。獅子がその子を千仭せんじんの穴に投ずるがごとくである。大なる使命を帯ぶる者は誘惑もまた大きい」などと解釈する学者もいる。大方の偉人伝や英雄伝では、このような「厳しい試練を乗り越えて」的な記述が通例ではあるが、それをあまりに美化し拡大解釈する必要はないだろう。

「荒れ野」へと追いやられる、人生の道のりにおいて、「荒れ野」をまったく経験しない人はいないだろう。いつでも平穏、安全な平らな道だけを歩むことはできない。石ころにつまづき、道のくぼみに足を取られ、くるぶし捻挫したり、時にもんどりうって、かすり傷を負うことも。珍しくない。さらに生きることは誰でも、否が応でも、誘惑にさらされるのである。サタンから誘惑されるとはいうものの、結局、その道を歩いてゆくのはサタンではなく自分自身である。それなのに「こんなはずではなかった、だまされた、気の迷いだった」と言っても始まらない。そしてサタンばかりではない、荒れ野には「野獣」が住んでおり、そこを行き来する者を獲物のように虎視眈々と狙っているのである。

そこで、主イエスを荒れ野に追いやったのは、実に「聖霊」であることに注目したい。ここには主イエスの公生涯の歩みが、凝縮されている。主イエスは、聖霊に導かれるままに、荒れ野に追いやられた。そして「荒れ野」の行きつく先は、「十字架」なのである。主イエスは聖霊、神の力に押し出されて、私たちの悩みと悲しみが道、罪と咎の渦巻くところ、荒れ野に追いやられるように、お出でくださった。そんなにしてまでも、神は救い主を私たちの世界に、送ってくださったのである。

レベッカ・ボンド氏の手になる絵本『森のおくから』。これは、作者のおじいさんが子どもの頃に体験したお話だという。「アントニオの家は森の中の湖のほとりで、木を切り出したり猟をしたりする人が泊まるホテルを営んでいました。近くに同年代の子がいないアントニオは時々動物を探しにひとりで森へ行きましたが、動物の姿を目にすることはありませんでした。彼らは、猟師がやってこない森の奥深くに住んでいたのです。

アントニオが5歳の夏、日照り続きでかわいた森を山火事がおそいました。炎は風にあおられ一気に広がり、逃げる場所は湖しかありません。人々が湖に逃げこみ茫然と立ちつくしていたとき、森の奥から動物たちが次々に出てきました。オオカミ、シカ、ウサギ、キツネ、ヘラジカやクマも現れ、水の中へ。彼らも皆、湖に入り、人間とからだが触れ合うほどのところで静かに水中に立っています。困ったときは相身互い、シカの隣には天敵のオオカミがたたずむという具合。やがて火がおさまると、動物も人も、またそれぞれの居場所へと戻っていきました。人間と動物のへだたりが取り払われたこの不思議な体験は、山火事の恐怖以上に深く少年の心に刻みこまれたのでした」。この絵本は、カナダで100年ほど前にあった実話を伝えているという。

「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。荒れ野はサタンや野獣が徘徊する場所である。そこで私たちは大きな不安と心配、怖れを感じて立ちすくむ。しかし、主イエスのおられるところには、たとえ荒れ野であろうと、黄泉の国であろうと、天使が仕えているのである。預言者イザヤの語るヴィジョンを思い起す。「狼は子羊と共に宿り/豹は子山羊と共に共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子どもがそれらを導く」。この風景は単に夢物語ではなく、この世界の現実の風景でもある。『森のおくから』はそれを教える。しかし人間だけが、この世界に神の造ってくださった大いなる平安を知らずに、相争い、殺し合い、噛み合っている。主はここに来られて、サタンの誘惑と闘い、それに打ち勝ってくださったではないか。