「ここを離れず」マルコによる福音書14章32~42節

4月は旅立ちの季節である。進学や就職のために、今までの身の置き所を立ち去って、新しい場所に赴く人も少なくない。進学や就職ばかりではない、定年退職や健康上の理由のため、今までなれ親しんで暮らしていた場所を離れて、新しい居場所に行かざるを得ない、という強いられた「時」もある。そして、その別離の時にあたって、餞別、はなむけとして、何某かの記念のものを贈るという習慣がある。

作家の吉本ばなな氏が、こんな思い出を記している。初めて1人暮らしを始めたとき、詩人で評論家の父、吉本隆明氏からあるプレゼントをもらったそうである。一体、父親は娘に何を贈ったと思うか。「工具セット」だったという。父親が言うには「いちばん必要なのはこれなんだ」。父がどうしてそこまで工具セットにこだわったのか、ばなな氏も首をひねったらしい。ただ、この話を収めたエッセーを読むと「人にはもう頼れないんだぞ」という親から子への優しい気遣いが伝わってくるようだ。ばなな氏は書いている。おしゃれなインテリア用品や調理器具ではなく、確信を持って工具を贈ってくれた父の武骨な態度をずっと大事にしたい、「そんなお父さんでよかった」と(「人生の旅をゆく2」)。

ただそこは詩人で評論家の父である。引っ越しをした後、いろいろ生活のために小さな大工仕事が必要になることに間違いはない。しかし「実際上、有用な品物だから」という即物的な考えだけで、かの品を贈った訳ではないだろう。ひとりゆえに、時に浮ついたり、緩んだりする気持ちを引き締めるための「ねじ回し」、失望や落胆した時に、心を立て直すための「とんかち」、そんな「心の工具セット」が大人には必要だ、と象徴的に語ろうとしているのかもしれない。

今日は「棕櫚の主日」、主イエスがエルサレムに入城し、十字架へと道を進まれるその歩みを心深く想起する、教会にとっての最も大切な週間である。そして今日の聖書個所は、ゲッセマネの園で、弟子たちと最後の夜を過ごされる場面が描かれている。このすぐあとで、主イエスは捕縛され、弟子たちと引き離されて、ユダヤ当局に引き立てられていく。主イエスと弟子たちの別離が語られる場面でもある。

ゲッセマネ(油絞り場)での夜の祈り、主はこう祈られたという。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。この祈りの言葉には、私たちの拙い祈りの底流にも流れている同じ事柄がある。私たちは祈りで、いろいろな嘆きや呻き、また願いを口にする。何でも、どのような事柄でも、自由に祈ってよい。こんな自分勝手なことを祈ったら、神様が気を悪くされる、意地悪される等と考える必要はない。そのままありのまま祈ればよい。他人に言えば愚痴になることも、神に向かうならば、祈りの言葉となるのである。

ところが、どのような祈りの底にも、ただ一つの事柄が河の流れのように流れている。それは「御心に適うことが行われますように」、という願いである。神は必ず「みこころ」を行ってくださる、と信じることが、「信仰」の中心である。しかしながら、一切すべてみこころが行われるのだとお題目のように唱え、自分を無理やり納得させ、自身の動揺する心、千々に乱れる思いを、無理やり押さえつけることが、信じることではないということを、主イエスのこの悲痛な祈りの中に見いだすのである。「この杯(十字架の苦しみ、苦悩、苦難)をわたしから取りのけてください」。この世には、大きな災害や戦争がひっきりなしに起こっているではないか。まったく罪のない子ども達が、その犠牲になって生命を奪われていくではないか。そして信仰を持っている私たち自身もまた、信仰があるから、そのような災厄を一切免れ、いつも幸運に生きられるわけではない。「杯を取りのけてください」と祈りながらも、その杯を飲まないわけにはいかない、という現実に向き合わされる。

主イエスもまた、この世の悲劇に、自分に降りかかって来る十字架に、向かい合い、「取りのけてください」と正直に祈っておられる、その祈りに、私たちは結び付けられているのである。しかし、その祈りが向かう所は、「神のみこころ」なのである。どこにそんなみこころがあるのか、と呻き叫びたくなるような所にも、神のみこころがある、神のみこころと切り離されている、神と無縁な場所はない、と知るのである。但し、それがすぐにそうだと分かる程、納得や了解できる程、私たち人間の心は、真っすぐではないし、明瞭でもない。しかし悲劇や災厄そのものだけに目を奪われ、それだけで心がいっぱいになってしまうのではない。主イエス自らが、背負うことになる十字架を、「御心が行われるように」と祈ったその祈りに、私たちは、支えられるのである。

今日の個所で非常に興味深い記述がひとつある。「ここに座っていなさい」、「ここを離れず」と繰り返されるように、「ここ」が強調されているのである。「ここ」とは、主イエスが祈るために、「少し進んで行かれ」た場所からほど近い所(数10m)である。主イエスは祈りながら「ひどく恐れてもだえ始め」られたという。もちろん主の苦しみのうめき声は、弟たちの耳に届いたことであろう。少し離れた処で、つまり私たちは、どうがんばっても主イエスとまったく同じ苦難の場所に立って、全く主と同じように、重なって生きることは出来ないのである。主イエスと全く一つになって、十字架の苦しみを、同じく苦しむことはできないのである。何とか主イエスのみ声が聞こえる所、それが「ここ」である。

「目を覚ましていなさい」「祈っていなさい」と主イエスは弟子たちに言われる。ここに教会の役割が、象徴的に語られているだろう。私たちは主イエスのみ声が聞こえるように、目を覚まし、祈ることが、第一の務めなのである。ところが、それぞれに頑張っているつもりなのであるが、情けないことに、眠り込んでしまう。しかも、一度ならず、二度までも、主イエスは慈しみ深い。「心は燃えていても、肉体は弱い」と言ってくださる。そうだけれども、三度目もまた、眠り込んでしまうのである。その時の主のみ言葉、「あなたがは眠っている、休んでいる、これでいい」。原文では、これは叱責や見損なったというような、裁きの言葉ではない。目を覚ましていられない、祈り続けていることができずに、うとうとまどろむ弟子たちに、その都度、主ご自身が近づいて来られて、言葉をかけ、揺り動かされ、目を覚まされるのである。十字架の前の、嵐の前の静けさのような夜闇の中に、主イエスと弟子たちとの、最も深い、慈しみの絆が語られるのである。私たちも、この絆でつなぎ留められているのである。

あるキリスト者が、こんな体験を語っている。「最近公園で見た風景ですが、訳の分からない子供の話、しかも、泣き叫びながら語っている話を若いお母さんが静かに聞いているのです。失礼かと思いましたが、私は疲れたふりをして近くのベンチに座り、ボトルのお茶を飲みながらその若いお母さんの様子を観察していました。お母さんは、ただ頷きながら背中をさすっているのです。10分くらい経ちますと、その子供が笑い出した様子を見て、驚きました。優しい母親とはあれだ、と感動しきりでした。私もこれまで原因不明の暗い感情に振り回されて生きてきました。原因不明の暗い感情を、ジーンとする温かい雰囲気で解決してくれた人々は、想えばその折々に神様が派遣して下さったようです。しかも内容に応じて、タイムリーに私と出会ってくれています(植村高雄)」。

「心は熱してるが、肉体は弱い」、何度も眠り込んでいる弟子たちのもとを訪れて、声を掛ける主イエスがおられる。十字架の苦しみを前に、「この杯を取りのけてください」と祈られる主がおられる。その主が、「御心が行われますように」と私たちと一つになって祈ってくださっている。

ゲッセマネの祈りは、夜の祈りである。漆黒の闇の中で、私たちは自分の力だけでは前に進めず、共に力を出し合って初めて、前に進むことができる。そして、私たちひとり一人にできることは、まず自分の心身の免疫力を上げることだ。特に心配や不安という感情に振り回されないような知恵が求められる。ネガティブな感情は、私たちの免疫力を著しく損ない、他者や自己への怒りに着火し、暴力や戦争までも引き起こす危険性も生み出される。今、世界は、そしてそこに生きる人間は、まさに「免疫力」が問題となっている。主イエスの十字架は神のみこころであった。「御心がなるように」、すべて、みこころしかならないのである。