創立46周年記念礼拝「イエスの名によって」使徒言行録16章16~24節

こういう文章を読んだ。「札幌に来て1カ月が過ぎた。来たころは街中でもあちこちに残っていた雪は消え、季節は一気に進んだ。桜は散ったが多彩な花が咲き、木々は若葉を伸ばしている。沖縄と気候も生態系も異なる北の大地の春はドラマチックでさえある。だがそれよりも強く感じたのは空が静かなことだ。そう、いま暮らす場所にはオスプレイも軍用ジェット機も飛んで来ない。飛ぶのはカラスくらいだ。夜がこれほど静かだったのかと改めて思った。米軍機を毎日うるさいとは感じつつも、感覚は麻ひしかけていた。人の感覚とは「慣れる」ものだ」(河原恭一5月12日付「南風」)。

沖縄の空、例えば「東南植物楽園」は、南国の木々や草木が露地植えされている広大な植物園であるが、隣接しているのが、嘉手納基地である。上空には、アメリカ軍の戦闘機が、円を描いて訓練する爆音が、四六時中響いている。美しい木々の佇まいと、戦闘機の機影は、およそ似つかわしくない。そんな思い出がよみがえる。旅をして現場に身を置いてみて、初めて分かる「皮膚感覚」と言ったら大げさだろうか。どんなに異様な光景でも、慣れてしまえば感覚がマヒしてしまうという。いつも美しい自然の上を威嚇するように、戦闘機がぐるぐると回っている。これが当たり前の感覚になってしまう、これは実は恐ろしいことである。それを「慣れさせない」ために、私たちは、神の造られる旅へと押し出されるのかもしれない。

聖書に登場する人々は、ほとんど皆が「旅人」としてその生涯が描かれている。その最たるものは、神の大いなる御手によって、モーセに導かれ、奴隷の地エジプトを脱出した出エジプトに続く、「荒れ野の放浪」の出来事である。自由の身となったイスラエルの人々は、40年もの間、シナイからパレスチナの荒れ野を彷徨ったというのである。そもそもエジプトからパレスチナまでは、真っすぐ行けば距離にして400キロメートルほどの道のりである。ここから大阪よりも近い。その距離を40年かけて歩んだということは、一年で10キロ、一日に換算すれば、僅か数メートルである。恐ろしく歩みの鈍いカメ以下である。これをどう説明するのか。

学者たちは40年という年月を、「平和的浸透」として理解しようとする。パレスチナに定着するのに、イスラエルの人々は武力闘争によるのではなく、非常に長期間をかけて、じわりじわりと急がず焦らずに住み着いたのであるという。つまり、町と町の間、余り条件の良くない痩せた場末の土地に、天幕を張り、小家畜を飼い、畑を開墾し、地域住民と摩擦を起こさないように穏やかに交流し、生存の地盤を築いていったのである。

この教会の記念誌『10年の歩み』の中で、牧野信次牧師は最初の10年の教会の歩みを、次のように述懐している。「鶴川集会が日本基督教団鶴川北伝道所としてさらに自立し、教団の課題を共に負うべく歩み始めたのが、1976年6月30日のことであった。礼拝場所も、牧師住居も幾度か変わり、点々とせざるを得なかった。エジプトを脱出して40年間も荒野を放浪し、天幕にて礼拝し、生活した神の民の民に比ぶべくもないか、教会がその形成の初期において、あのような経験をせねばならなかったことは、神の強いられた恩恵であった。殊に三年間自宅を開放して教会の基礎を形成する良き準備の時代を過ごすことを赦された寺沢宅での歩みを、私は決して忘れず、いつも大きな感謝をもって思い起こすのである」。時に、ようやく確保したかに見える集会場所を、追い出されるという悔しく寂しい経験もあったようである。どの教会の歴史にも、こうした荒れ野時代の記憶が付きまとっている。花が寒さを得て美しく花開くように、教会も荒野の歩みがあってこそ、主の教会となって行くのであろう。

出エジプトの時の古代イスラエルの人々の歩みばかりではない。主イエスの宣教も、同じであった。主はガリラヤのナザレが故郷であったが、その公生涯の歩みは、まさに「旅人」のそれであった。「狐には穴があり、空の鳥にはねぐらあり。しかし人の子には、枕するところさえない」という侘しいみ言葉の示すとおりである。主イエスの昇天の後、宣教のわざを託された弟子たちもまた、師の働きに倣って、さまざまな場所に遣わされて、つまり「旅」をしながら、あるいは迫害を逃れるためにやむなく「移動」しつつ、み言葉を伝えて行ったのである。宣教は常に「旅」と共にあった、ということができるだろう。

今日の個所では、パウロと彼の弟子シラスの宣教旅行のひとこまである。パウロにとって自分がリーダーシップを取っての最初の旅である。一回目の旅行は「バルナバ」という面倒見の良い、温和で包容力の豊かな苦労人、心強い味方が、一緒に歩んでくれた。ところが2回目の旅行でパウロは、このバルナバと対立して、同行を拒絶するのである。これはパウロにとっても痛手だったろうが、強気に出た手前、弱音は吐けない、というところだったろう。但し、一度目とは段違いに、二度目の旅行は距離も長いし、期間も長く、いろいろな厄介な事件が待ち受けていた。

今日の個所では、占いの霊に取りつかれた女と出会い、この女にしつこく付きまとわれたというのである。パウロはよそ者だったから、一種の嫌がらせをされたのだろう。「占いの霊」とは「ピュトンの霊」という用語が用いられている。ピュトンは神話的な「大蛇」のことで、「蛇」が何か神秘的な生命力、不死の力をもっていると信じられたことは、医学の紋章にも用いられている通りである。ギリシャ世界にはよく知られていた。生きた蛇を用いて、腹話術のように面白おかしく宣託を語って見せたのであろう。今言うならば大道芸である。

ところがあまりにしつこくうるさく絡んでくるので、パウロは堪忍袋の緒が切れたのだろう、厳しく叱りつけた。すると驚いてパニック状態になって、蛇に噛みつかれたか、パウロが手品の種を見物人にばらしたので、上手く演技できなくなったというのである。すると主人が怒って、「営業妨害」だと訴えた。神殿や聖所では、縁日に大勢の人が集まるので、警備する当局は騒ぎが起らぬように、常に目を光らせている。得体のしれぬよそ者がけんか騒ぎを起こしたというので、パウロたちはとっ捕まえられて、鞭打たれて懲らしめられたというのである。因みに「旅」”トラベル“という言葉は、古代では”トリパリウム“「三つまたの鞭」から派生した言葉である、「旅」をすることは、「鞭」打たれることでもあった、とルカはレトリック感覚を披露しているのである。

見ず知らずの土地なのだから、よそ者らしく、もう少し遠慮し要領よく振るまえば、パウロも鞭打たれることなどなかっただろう。但し、このパウロの振る舞いによって、警備当局も後に厄介ごとを抱えることになるのである。聖書において「旅」は人間の都合や金儲けのために行うものではないから、「神の旅」に、人間の方が付き合うのである。だから突拍子もないことが起って来て、旅人たちは慌てふためきもするのである。実際、ルカの記している出来事は、何と常識外れで、予想外れで、人間の思惑を超えて思ってもみないことだろうか。こういう旅に、今も神は私たちを招き給う。パウロの宣教の旅の主体は、実は彼自身ではなく、見えないキリストなのである。キリストが企画する旅は、まったく人間の予想のつかない旅である。そういう旅を人生の中でしてみるのも、悪くないだろう。

「神は道のないところに道を造る」、とは、アメリカの公民権運動の中で「活動家」たちの「合言葉」とされたスローガンであるが、実際にこの運動に参加した人々に共有された体験だったのだろう。こんなところに道などないだろう、無理だと思えるところに、神は道を造って下さり、そこに召された者たちを歩ませられる。その道は、ついに広々とした場所に、私たちを連れて行くのである。この教会の礎を造るために共に働いた人々も、いろいろな所をあちらこちら転々としながらも、ついに教会の基を据えるべきところに導かれた。今、そこにキリストの教会が立てられている。私たちの目には不思議に見えるが、確かに神は、ここに至る筋書きをも造っていてくださるのである。