「250時間」、約10日間に相当する時間である。24万1686人―。沖縄・摩文仁の丘に立ち並ぶ石碑「平和の礎(いしじ)」には、朝鮮半島出身者、米兵らも含めた沖縄戦の死没者、現在判明している限りのすべての人の名前が刻まれている。毎年、亡くなられた方が新たに判明すると、新しくその名前が碑に刻まれて行く。今年初めて、ひとり一人の名を有志が交代で読み上げるという、「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」が読谷村で開催された。すべての名前を読み上げるのに、250時間かかったそうである。当時の沖縄県民の4人に1人が犠牲になったとされる。そんな現地を訪れるたびに圧倒されるのは、戦没者名すべてを漏らさず碑に刻もうとする、沖縄の人たちの執念とも言える思いだ。その背後に、生きた証しを残すことが平和を築く、そのような強い信念が伝わって来る。「24万1686人」、数字だけ聞けば、「大きな数」でしかないが、その数の中身である生きた証、そのしるし、「名前」を読み上げるだけにかかる時間が、250時間なのである。「100人の死は悲劇だが、100万人の人の死は単なる統計だ」、こんな言葉が非常に空しく響く。
さて今日の個所は、前回の続きである。パウロとバルナバ一行は、キプロス島のパフォスから船出して、パンフィリア(現トルコ)のペルゲに上陸する。キプロスはバルナバの故郷だったから、「慣れた土地での小手試し」、のような調子だったかもしれないが、これからはいよいよ宣教旅行の本番、実際の幕開け、とも呼ぶことのできる時が始まる。ところがここで一つの事件が起こる。バルナバの意向で、助手として同行させたヨハネが、エルサレムに帰ってしまった、というのである。ネット用語で「ばっくれる」という言い方があるが、そのように「(自分勝手に)逃げて、姿をくらました」のである。もちろん「ヨハネ」は、十二弟子のひとりではなく、エルサレム教会に籍を置いていた、まだ年若い見習いの伝道者だったと思われる。
バルナバは伝道の現場実習の名目で、彼を同行させたのであろう。なぜ彼が務めを放り出したのか、詳細は記されていないから、想像するしかないが、通常、「宣教旅行」の辛さに耐えかねたのだろう、と推測されている。古代の「旅行」は「鞭で叩かれる」ような「苦行」であり「苦役」であり、強盗や追剥にあって、命を狙われる可能性も大きかった。それだけでなく、反対者からの迫害や嫌がらせ、土地の人々の無理解に、耐えられなくなってしまったのだろう、ということである。ところが、このヨハネの「職務放棄」の件で、後に当のパウロとバルナバが意見の相違が生じて、決裂してしまうのである。第2回目の宣教旅行を行うにあたり、バルナバはもう一度、ヨハネに機会を与えたい、と提案したが、パウロはそれを頑なに拒絶するのである。それを考慮すると、おそらくヨハネの離脱の本当の理由は、パウロとの折り合いが、極めて悪かったのだろうということである。さもありなんと思う。
そんなすったもんだがありながらも、旅の行程は進展して行き、パウロたちはピシディアのアンティオキアに到着した。シリアのアンティオキアから出発して、アンティオキアに着いたという。前300年頃、シリア王セレウコス1世ニカノルが、父アンティオコスを記念して建てた16の都市のうちの1つで、当時、このトルコ・シリア界隈には同名の町がいくつも点在したようだ。この町にあるユダヤ人の会堂、シナゴーグで、パウロは人々の前で話をした。現在のようにマスメディアが発達しておらず、情報の乏しい時代には、遠方からやって来る旅人のもたらす珍奇な話は、貴重な情報源でもあり、娯楽でもあり、人々から歓迎されたのである。まだこの頃は、キリスト教は、ユダヤ教の一派、いささか風変わりではあるが、と見なされていた。「ユダヤ教ナザレ派」という呼び名もあったようだ。
彼は会堂のユダヤ人を前に、こんな話をする。奴隷としてひどい苦難を味わった古のエジプト時代のことから説き起こして、出エジプトの幸い、40年に及んだ荒れ野の放浪、さらにイスラエルの建国、王国時代、サウル王からダビデ王の時代を想起し、さらに今に至る時代までの長い歴史を概括する。そしてミレニアムを越える時の流れを人々に呈示し、その長い自分たちの歩み、歴史の意味を語るのである。
彼の話に耳を傾ける人々は、主に「ディアスポラ」、離散の民、散らされたユダヤ人たちである。祖国を失い、先祖代々の土地から離れ、異国に暮らす人々にとって、今、自分たちがここに生きている意味が何なのか、問わずにはおれなかったろう。そして古代の人々にとって、生きる意味や価値、というものは、神との関わりなしに考えることはできなかったのである。故郷から遠く離れ、散らされている自分たちに、神はどのようにみこころを示されるのか、もはや異国に暮らす自分たちなど、まったく眼中になく、無関心に捨てられているのではないか。
他ならぬディアスポラのひとりであったパウロは、そういう同胞の気持ちが痛いほどよく分かっていただろう。自分に言い聞かせるかのように、このように語る。23節「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。
神はかつて私たちの先祖、父祖たちと交わされた「約束」を決して忘れてはおられない。あなたがたがどこにいても、どんな遠くにいても、どのようにあったとしてもあなたから離れることはなく、必ず共にいて、その歩みを導く、というのである。そのために救い主イエスを私たちの間に遣わしてくださった。
「約束」これは「契約」というニュアンスの強い用語であるが、古代の「契約」で一番の肝心、要に据えられていたことは何か、知っておく必要がある。それは「名前」である。出エジプトの後、荒れ野で神から与えられた「十戒」の冒頭に、「約束」とはいかなるものかが端的に示されている。「わたしはヤーウェ、あなたがたを奴隷の家から導き出した者である」と告げられる。まことの名前を呼びかけあうことで、約束は成り立つのであり、約束が新たにされ、時代を越えて有効に働くのである。神は今なお、あなたがたひとり一人の名前を呼んで、救いへと連れ出し、導くのである。「わたしはあなたのことを忘れない」。
「なし崩し」という言葉がある。どういう意味だろうか。漢字で「済し崩し」と書く。今では、あまり良くない意味に使われる。「じわじわと無かったことにするような無責任行為を指して使われる」例が多い。政治の世界での政策の常套手段としてよく用いられる。ところが本来は、「借金を少しずつ返済することを意味する言葉」なのである。転じて「物事を徐々に解決していく」慣用表現として定着したという。言葉は生き物であるから、用法の変化はままあるものであるが、真逆の意味になるとはどういう塩梅だろうか。「じわじわとなかったことにする」ではなく、「徐々に進んで行く」、神の計画も、そういうものなのであろうか。
嫌気がさして、勝手に離脱してしまったヨハネだが、彼の本名は「ヨハネ・マルコ」という名前だという。マルコという名を聞いて、皆さんは、何を思い浮かべるか。おそらくはマルコによる福音書の「著者」であろう。古来、あの迫力ある福音書、最初の福音書を記したのは、パウロとバルナバとの宣教旅行で、エルサレムに逃げ帰ったあの若者の、後の姿であるという。人間の成長というものを見ることができるだろうが、神のみ手がどのように私たちに訪れるのかを、深く考えさせられる事柄であろう。パウロの名を呼んで、みもとに招いた神は、パウロの拒絶したヨハネ・マルコの名を呼び、やはりそのみわざのために招かれるのである。私たちひとり一人もまたそうである。」
沖縄の一地方紙が、このような記事を載せていた。沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」で17日、朝鮮半島出身者の読み上げがあった。「平和の礎」に刻銘された24万人余りのわずか464人。追加刻銘は進まず、一部にとどまる。終了後、ある参加者が、韓国語の勉強仲間に声をかけたが、仲間から知らんぷりをされたと話した。「これ誰か聞く人いるの?」そう言われたという。韓国出身の南成珍さん(52)は「亡くなった人たちは聞いていると思う」と答えた。南さんは犠牲者の多い慶尚北道の出身。「おじいやひいおじいだったかも。どんな思いで遠い沖縄で亡くなったのか」と想像しながら読み上げたという。私たちは、あなたたちのことを忘れない―。きっぱりとした意思表示のように思えた(6月22日付「金口木舌」)。ひとり一人の名を呼んで、みもとに招かれる神は、読み上げられるひとり一人の名前を、静かに、しかし確かに聞いておられるであろう。