自分たちの身近にある、ごく日常の風景を、殊更、芸術の対象にするという発想は、近代になるまでなかなか生じてこなかった。音楽も絵画もみな、現在のメディアのように、壮大な神話、偉大な英雄の生涯、大戦争等、人の目を引く歴史的大事件を題材にし、それを後世に伝えるために、描こうとしたのである。
ところが、宗教改革時代以後になると、人々の関心は歴史的な大事件ばかりでなく、極めて日常的な事物にも目が向けられるようになった。そういう画家の一人が、16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルである。この画家により1560年に描かれた油彩画に『子供の遊戯』と題された作品がある。現在、ウィーンの美術史美術館に収蔵・展示されている。描かれている子供は、幼児から若者まで年齢幅があり、様々に遊ぶ様子が細かく描き込まれている。およそ80~90種類の遊戯を認めることができる。この中には、「コマ回し」「ままごと」「柵登り」「鬼ごっこ」等、今でも行われている遊びも、見て取ることができる。
「なぜ画家はこうした絵を描いたのか」、という問いが、昔から議論されて来た。「子どもは大人の鏡である」という諺があるが、そこに描かれる子どもたちの姿は、服装も振る舞い、また表情も「小さな大人」であり、楽しんでいる遊戯の多くもまた、大人たちの模倣である。画家の意図は、子供の遊戯のあれこれをパノラマのように並べ、大人になった人々にかつての子ども時代を、懐旧の思いに浸らせようということではない。神の目から見れば人間社会とはいかなるものか。大人は自分のしている仕事を、内心で大きな意味と価値を持つものだと自負しているが、神からみれば、子供の遊戯も大人の仕事も大して変わりがないのではないかというのである。
さて、今日取り上げる聖書個所は、主イエスの「エルサレム入城」の場面である。古代の文学では「子ども」が何らかの意味をもって描かれることは、極めて稀である。聖書は古代の文学の中にあって、当時の子どもの姿を伝える稀有な例であろう。エルサレムの人々が、神殿に入って来られる主イエス一行を迎える場面に、大人たちばかりでなく、子どもも交じっていたことを確かに記しているのである。
ルカ福音書によれば、主イエスもまた誕生して間もなく、両親に連れられてエルサレム神殿に参詣し、以後、毎年、両親が宮詣をしていたというから、おそらくは児童期には、親に連れられて、エルサレム神殿に足を向けることも、しばしばであったろう。そしてそれは他所の家でも同じことであったことは、想像に難くない。神殿の一番外側には、誰でも入れる「異邦人の庭」があり、そこにはユダヤ人ばかりか物見遊山の外国人も立ち交じり、入り交りしていたから、子どもの目に、ここそこに珍しい事物があふれかえっていた。家畜や人が大勢集まり、屋台が並び、楽の音と賛美と共に人々の喧騒が渦巻く神殿で、連れられてきた子どもたちは興奮しただろうし、直ぐに友達を作って、境内で一緒に遊ぶということも当たり前のことだっただろう。
ところで当時の子どもは何をして遊んでいたのだろうか。新約の中には正典に入れられなかった書物「外典」に、主イエスの幼年時代を伝える物語が、今も見ることができる。主イエスは幼い頃、土をこねて泥遊びをし、粘土で「すずめ」を作って遊んでいた、という記述がある。年長の子どもから、「土だから飛べないだろう」とからかわれたので、「飛んで行ってしまえ」と命じると、粘土のすずめは飛び立った、という。
子どもは大人の真似をしたがるもので、遊びで模倣して、後の技術や生活の仕方を自然に覚えるようになる。粘土遊びも、大人たちが土の器を作るのを見て、それを真似するところから来ているのである。当然、主イエスの父ヨセフは、大工(石工)であったから、主もまた見よう見まねで、父親の仕事を学んでいったと思われる。
今日の聖書個所は、「ロバに乗る主」と「宮清め」の二つの記事が続いている。この一連の物語は、ロバに乗る柔和な救い主と、それと真逆のように、神殿の庭で大立ち回りを演じ、商売人の屋台を覆される暴力的な主の姿が、対照的に記されており、読む者を当惑させる。時として暴力の行使は許されるのか、という議論も呼び起こすであろう。しかし、この物語の結末が、詩8編2~3節のみ言葉「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」をもって結ばれていることを考えると、「子ども」をモティーフとして語られる「キリスト論」として受け止めることはできないだろうか。
確かに「ロバに乗るメシア」(ゼカリヤ書9章9節他)は、古の預言者の告知した所である。しかし、ロバは庶民の生活にとってありふれた、しかし欠かせない家畜であり、子どもたちも、毎日エサをやったり、その背に乗ったり、友達のように楽しく遊んだことだろう。救い主がそんな楽しい姿でやって来られるのである。そして、神殿の屋台をひっくり返し大騒ぎしたこともまた、いささか調子に乗った子どもが、高く積み上げた積み木を、一気に崩して遊んでいるような雰囲気である。そしてその様子を面白がった大人たちが「いと高きところにホサナ」と叫ぶ声の真似をして、子どもたちもまたかわいい声で、キンキン声で喚いている、そういう情景が目に浮かんでくる。つまり主の到来は、神殿という権威ある厳めしい場を、「遊びの場」に変えたのである。ここで繰り広げられている一連の出来事は、一言で言えば「主の遊び」なのである。主イエスの遊びを、人々、子どもたちも一つになって、楽しく遊んでいるのである。主もまたそれを楽しんでおられる。しかし「遊び」を楽しめない大人もいるのである。子どもたちの歓声を、騒音としか受け止められない人もいるのである。厳めしいだけで遊びのない所は、きっちりとはしているかもしれないが、およそ楽しくないだろうし、自由がない。
最初にブリューゲルの一幅を話題にした。神は人間の営みをまるで子どもの遊戯のようにも見ておられる。但し、人間の営みを、神は愚かなものだと軽蔑しているということではないだろう。却って、神は親が子どもの遊ぶ姿を微笑まし気に見守るように、人間ひとり一人の人生の有様を、楽しんで見ておられるというのではないか。とは言え、今の世界の有様を虚心坦懐に見るならば、神が嘆き悲しむような事態を引き起こし、まるでそれを遊びのように弄んでいる人間の営みもあることを、承知しておかなければならない。主はその事態を「強盗の巣」と呼んでいるのではないか。