祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書23章1~12節

「反面教師」という言葉がある。手本であるべき立場なのに、悪い影響しか与えないので見習うべきでない人のことを指す。辞書で調べるともう少し詳しいニュアンスが説明されている。「非教育的な反面をさらけ出すことによって、かえって生徒に一種の感化を与え得る効果を具有する教師、(広義では、子に対する親や、ヤングに対する社会人の場合を含む)」とある(新明解国語辞典第四版)。

この辞書によれば、「反面教師」とは、まったくの害悪でしかなく、無価値な存在、という訳でもないようだ。確かにどんな人も、「無価値、無意味」という言葉で、すべてを言い尽くすことはできず、何らかの「効果を具有」しているものだろう。但し、そういう人は周囲の人々の寛容によって支えられているのは。間違いない。すると誰でも「反面教師」であると言えそうだが。

今日の聖書の個所には、「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」という表題が付けられている。「律法学者とファリサイ派の人々」は、福音書では多くの場合「悪役」呼ばわりされている。ドラマの構成上、どうしても「悪役」はなくてはならないキャストではあるのだが、全部が全部、「越後屋!、おまえもそうとうな悪よな」、「いえいえお代官様ほどでは」とやり取りする人々という訳ではない。律法学者の中には、主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と褒められる律法学者はあったし、アリマタヤのヨセフのように、主イエスが十字架で息を引き取られた後、墓に葬ったサドカイ派の高官もいたのである。ただ、民衆にとっては、彼らは総じて自分たちの上に立つ人、「リーダー」のような存在だった。

「リーダー」という言葉を聞いて、どのような人を思い浮かべるだろうか。この教会には、「子どもの教会」があり、その運営のために奉仕している人を「リーダー」と呼ぶ。その人たちは、教会の他の人たちとかわらない人々である。子どもにリードされることはあっても、教会をリードしているなぞ、思ったこともないだろう。そういうイメージだろうか。かつての「リーダー像」は、皆が重い荷物(課題)を懸命に引っ張る中で、その重荷の上に陣取って、あれこれ命令や指示、時には叱責をする人、という具合だった。自分たちよりも上の立場で、権力を使って支配する、しかし身体は動かさない。

今日の個所では、主イエスの時代のリーダーたち、ファリサイ派、律法学者たちの姿が、いささか戯画的にだが、極めて辛辣に語られ、非難されている。4節以下「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。

言葉を尽くして、当時のリーダーたちの振る舞いを論っているようだ。「先生」という用語は「ラビ」であり、もともとは「わが師、わが主人」という意味で、これはまさに「上に立つ」人への敬意を表す言葉だったのである。ユダヤの伝承では、後1世紀から7世紀にかけて、ラビは報酬を一切受け取らず、聖書とタルムードと言われるもう一つの律法と、その中の口伝律法を教えたという。そのため、生計をたてるのに別の職業に就いていたとも言われる。

主イエスの活動中も、大方はその様であったろうが、やはり主イエスの活動や、後の初代教会のあり方について、議論を仕掛け、いろいろ口をはさむということはあったろう。特に主イエスの共同体の「自由さ」、とりわけ「律法」に対してのゆるい態度、人間関係のおおらかさに、不快感を持って反対する者たちは多かったであろう。余計なお世話である。

ただ「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」という批判の言葉の背後には、知っておくべきことがある。彼らは確かに律法をきちんと守って、規律ある生活を送るようにと、人々に指示し、守るべく指導し、守っているかどうかを監視した。ところが、彼らは律法の専門家だから、日常生活の適用には矢鱈詳しいのである。すると「法の抜け道」「脱法の方法」をも知り尽くしているのである。いかなる法も「解釈」されるものだから。

この聖書個所で語られる「ファリサイ像」は、まさに旧来の「リーダー」のイメージそのものである。ところが最近、新しいリーダーのあり方、「サーバント・リーダー」なるイメージがしきりに語られている。サーバントとは本来、「使用人」や「召使い」という意味を持つ用語である。それだけで従来のリーダーと対極にあるような言葉だが、「サーバント・リーダー」はより具体的には「支援型リーダー」「奉仕型リーダー」と呼ぶことができる。このリーダーに求められる資質や特徴は何かと言えば、「傾聴、共感、癒し、説得、気づき、概念化、先見力、執事役、成長促進、コミュニティの育成」等の働きであるという。確かにどれも重く、難しく、しかし人間や社会にとって不可欠な働きである。そして主イエスが、弟子たちに求めている働きは、まさにそれである。10節「あなたがたの教師(ラビ)はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。「仕える者」とは、「サーバント・リーダー」のことである。既に主イエスは二千年前、それを口にしているのである。しかし、こんな重い仕事を、私なんぞにできる訳はない、と思う人がいるだろう。全部自分でしようとするから、「そんな難題、むりなんだい!」。その中の働きの全部でなく、自分もできるひとつを、やってみればいいのではないか。主イエスの言われる「リーダー」は、決して一人で立つ人ではない。その方は天にいらっしゃる神であり、聖霊として私たちと常に共にある、主イエスであるから、私たち皆が、「リーダー」なのである。

「わが子よ、私の言葉を聞きなさい。そして実行しなさい。しかし私の振る舞いに倣って花らない」。あるユダヤの父親が子どもに発した言葉と伝えられている。親はみな内心、子育ての中で、こんな気持ちでいるのかもしれない。子どももまた、そんな親の発する言葉と日常のふるまいの間に剥離があるのを見抜いて、反発、反抗するのだろう。しかしいつか自分自身もまた、そのような生き方の中にあり、そうでしか生きられないことをうすうす知る時に、その言葉を思い起こすのかもしれない。重荷も皆で一緒に引っ張れば、きついけれども、喜びが生まれて来るだろう。それこそが「仕える」人への報酬である。