祈祷会・聖書の学び 列王記上21章1~16節

「土地は誰のものか」という問いがある。この国では、土地の「評価額」があり、通常、実際の売買にあたっては「需要と供給」の法則に則り、地価が決定され、売り買いされている。金額的に折り合い、売り主、買い主が合意すれば、譲渡されるのである。但し「土一升、金一升」という言葉もあるように、東京都区内の土地全部の値段で、アメリカ全土を買うことができるとの試算もある。バブルの頃は、土地の値段が短い期間に何倍にも跳ね上がった。世界でもこの国は土地の値段の極めて高い国である。狭い国土に、山地が多く、生活可能な居住地が少ない、という自然的条件はあるにしても、「土地」に対する価値観、神話、信仰が根強い国民性だからと説明される。

但し、日本のように、原則として土地の所有は個人あるいは法人の財産として認められる国ばかりではなく、土地の所有者は基本的には国家であり、そこから国民に貸与されると定めている国もある。確かにこの地球は、人間が作った構築物や製造物ではないから、勝手に誰のもの、彼のものと所有権を認めるのは、おかしいという発想である。

ところで「月の土地は誰のもの」だろうか。1967年に制定された国連総会決議2222号宇宙法というものがあるが、これにきちんと記述がある。「第二条 月その他の天体を含む宇宙空間は、主権の主張、使用若しくは占拠又はその他 のいかなる手段によつても国家による取得の対象とはならない」。ところがこれは国家の取得を禁止しているだけで、個人の取得までは禁止していない。それで現在、アメリカの「ルナ・エンパシー社」が月の土地を販売し、権利書を発行するという「地球圏外の不動産業」を始めている。日本語でもその会社のHPを読むことができる。気になる値段は1エーカー2,700円、一坪当たり2.2円。買い求めるか。究極の原野商法である。それでも買い手があるらしく、権利書も発行されるので、誰かへのプレゼント目的(ジョーク)で購入されるという。

今日の聖書の箇所は、「ナボトのぶどう園」の物語である。旧約の中で最も不快感を催す話のひとつであろう。この物語のタイトルは、英語の成句でも「権力者の横暴」の譬えとして語られる。旧約の律法では、基本的に土地は神のものであり、神から賜物として、それぞれの部族、人々に分け与えられたものである。だから原則として売買可能なものではなく、先祖から代々受け継ぐべき嗣業だったのである。背景には、人間を養う食料を生み出してくれる土地、つまり「畑」は、幾世代もの長期間にわたる丹精込めた開墾によって、ようやく造られるものである。

特に「ぶどう園」というものは一朝一夕に完成できるものではない。良いぶどうを育てるには、土地、土、水、肥料、日照、そして何よりぶどうの木を丹精するプロセス、即ち刈込、剪定等、年間ほとんど休みなしの粉骨砕身する作業が必要となる。代々の労力の積み重ねによって、はじめて良いぶどう園となるのである。だから簡単に売買できない大切な嗣業なのだと言えるだろう。ぶどう作りに携わる人々によれば、その作業は年末年始の真冬、枝の刈り込みから始まるのだという。小さい頃に、正月を迎える前に、床屋に行くように親に言われた思い出があるが、きれいに散髪して新春を迎えるような趣である。

宮殿の傍らにある美しいぶどう畑に魅せられたアハブ王は、その持ち主ナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」しかしナボトは頑固にも王に、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言って拒絶する。

ナボトにすげなく断られたアハブ王は、ふてくされて自分の部屋に引きこもってうじうじしていた。すると彼の妻、イゼベルが不甲斐ない夫に発破をかける。「あなたは王でしょ、なんて意気地なしなの、あたしが思い通りにしてあげるわ」とばかり、残忍な計略を巡らす。町のならず者に密かに賄賂をつかませ、偽りの讒言によってナボトを亡き者とするよう命じたのである。彼女の目論見通り、ナボトは哀れにも不正の怒りを被り、石打ちにされ、あっけなく生命を落とす。己の手を汚すことなく、まんまとうまく事は運び、美しいぶどう園は、今やアハブのものとなった。因みにこの妻イゼベルは、果敢な預言者エリヤをして、恐怖に震え上がらせ、尻尾を巻いて逃亡させ、完全に気力を失わせた唯一の人物である。ナボトの一件からも、確かにそれと知れるだろう。

「ナボトのぶどう畑」同様の事件は、アハズ・イゼベルの計略だけでなく、王国時代から主イエスの時代まで、頻繁に生じていたらしい。主のたとえ話には、その事実をにおわせる話がいくつかある。一たび飢饉が起こるや、生き延びる借財のために、人々は嗣業の土地を手放し、小作人に貶められたのである。大土地所有の不在地主が横行していたのが主イエスの時代である。ヨベル法など何の効果もなかった。

土地の不正取得を巡る、まことに不愉快な物語が記された背景には、もともと寄留者であって、神の憐れみの導きによって、約束の地に入れられた聖書の民の強い信念があるだろう。何よりも土地は、自分たちの力によって勝ち取った成果ではなく、神の憐れみのしるしであった。即ち、そこに生きる人々に、神の恵みを具体的に証しし、確認する縁(よすが)であったのである。そこに人々は本当の安心を観たのである。安心の根が神にあることを、豊かな土地の実りによって覚えるものであった。だから土地の売買は、測りえない神の恵みを、金銭に置き換えることで、その恵みを小さくゆがませるのである。恵みが売買される、それは人々からまことの「安心」を奪い取ることであった。安心がない時に、人間は貪欲になるものである。欲望の肥大は、実のところ不安の裏がえしということであろうし、現代人の心の実際を物語るものであろう。

最初の人アダムは、土から取られた存在であり、神からエデンの土地を耕す務めを命じられた。つまり「働く」ことは「自分自身を耕す」ことに他ならず、それは「顔に汗する」作業なのである。そこから生きるすべての意味と喜びとがもたらされ、生命の糧をも与えられるのである。残念ながらアハブ・イゼベルには、そういう人間のまことを知る縁を持たなかった。そして土地を単なる投機の対象としか見ることのできない現代人にも、同じ問いを投げかけているだろう。所詮、人間は「起きて半畳、寝て一畳」の存在なのである。