「だれによって」使徒言行録4章5~12節

こんな新聞記事が目に留まった。「明治安田生命保険は5日、2022年に生まれた赤ちゃんの名前の人気ランキングを発表した。男の子では『蒼(あおい=読み方は一例)』と『凪(なぎ)』が同率トップで、女の子では『陽葵(ひまり)』が2年ぶり2回目のトップだった。ロシアのウクライナ侵略や新型コロナなど不安要素の多い年だったのを反映してか、穏やかで平和的な響きや自然にちなんだ漢字の人気が高かった。漢字1文字の名前も目立ち、男の子は『蓮(れん)』、女の子では『凛(りん)』『詩(うた)』などがランクインした。読み方別では、男の子は『はると』が14年連続の首位。女の子は『えま』が初の1位だった。女の子では外国人の名前にも使われる読み方が多くなっている」。人の名には「祈り」が込められている。キラキラネーム等が話題になるが、子どもの名前には、どんな名前でも、子どもをめぐる周囲の人々の祈りが、必ず息づいている。

フランスの子どもたちが、必ず学校で暗誦させられる詩があるという。皆さんもそういう経験をお持ちだろうが、その頃憶えた章句を、今も覚えているだろうか。かつて教会やミッション・スクールでは、聖句の暗誦大会が盛んにおこなわれていた時期がある。今は、記憶してくれる便利な媒体はスマホを始めそこいら中にあるから、わざわざ「憶える」必要もないのかもしれない。それでも今も教育の中で「憶える」意味の重要さを問う必要があるだろう。

「ぼくの生徒の日のノートの上に/ぼくの学校机と樹々の上に/砂の上に 雪の上に/

ぼくは書く おまえの名を/読まれた 全ての頁の上に/書かれてない 全ての頁の上に/石 血 紙あるいは灰に/ぼくは書く おまえの名を/大食いでやさしいぼくの犬の上に/そのぴんと立てた耳の上に/ぶきっちょな脚の上に/ぼくは書く おまえの名を/戻ってきた健康の上に/消え去った危険の上に/記憶のない希望の上に/ぼくは おまえの 名を書く」。「お前の名」という章句が何度も繰り返される。衣食住はじめ、自分の生活、体験、経験領域のすべてに「おまえの名」を記すのだという。ありふれた一つひとつの出会い、遭遇の時に、その名を確認し、その名を声に出して呼んで、反復するのだという。なぜそんな厄介なことをしなければならないか、もしそうしなければ、その名が消え去ってしまう、失われてしまう。名前が消えるということは、存在や働き、生命も失われてしまうことになるのだ、とこの詩は詠われる。それでは「その名」とは何か。何を指すと思われるか。

この詩はこうして閉じられる「そしてただ一つの語の力をかりて/ぼくはもう一度人生を始める/ぼくは生れた おまえを知るために/おまえに名づけるために/自由(リベルテ) と」。ポール・エリュアール『自由(リベルテ』(安東次男訳)。かの国の生徒が、なぜこの詩を暗唱させられるのか、しばし心を巡らせねばならないだろう。そして、この国ではそのような「ことば」は何があるのか、思いめぐらすことも必要だろう。

さて、今日の聖書個所は、3章の冒頭から続く話の結末、その前半部分である。ペトロとヨハネが神殿で祈るために詣でると、そこに生まれつき足の不自由な男が、施しを乞うているのに出会う。二人は彼に目を留め、語りかける。袖すり合うも他生の縁のように、ほんのたまさかの出会いである。ペトロは彼に言う「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」すべてはここから始まるのである。このペトロの言葉には、最初の教会の実情も、比喩的に語られているだろう。教会に「金銀はない」のである。普通、先立つもの、元手や資本金がなければ、事業は起こせないし、資金繰りにも行き詰まってしまい、直ぐに立ち行かなくなるだろう。それではまったくどうにもできないか、お手上げかと言えば、人間的にはその通りである。教会はその最初から今に至るまで、人間的には「お手上げ」の場所なのである。しかし「お手上げ」だからこそできることがある。この時代の人々は、祈る時には両手を上げて、神に対したと言われる。それは自らの無力さの表明、神のみ前に、自らを閉ざすことなく、明らかに開示しようとする姿勢でもあったろう。

最初の教会の人々は、金銀をはじめ持ち物にはまったく見るべきものはなかったであろうが、教会としてちゃんと持つべきものは持っていたのである。「持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって」、初代教会の宣教とは何であったのか、ここに象徴的に示されているであろう。「主イエス・キリストの名」を宣べ伝え、これを分かち合い、これを共に広めたのである。ただこれだけを。何とささやかな事であろうか。

ところがこの「ささいなこと」が、大きな出来事を引き起こしていく。それが今日の聖書個所につらなり、メッセージとなっているのである。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」。大祭司はじめ錚々たる神殿の幹部たち、最高法院の議員たちの前に、ペトロとヨハネは引き出されるのである。もとはと言えば、その切っ掛けは物乞いをしていた哀れな人とのささやかな出会い、小さなふれあいが、このような大騒動にまで発展したのである。今日の個所の掉尾にはこう記される「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。神は、お手上げの、無力な人々のいる所を、激しく揺り動かされ、出来事を起こされる。そのもとは(元手、資本?)は、ただ「イエスの名」それだけである。それは財産、資産や証明書、推薦書等、目に見えるものではない。

大祭司らは弟子たちに尋ねる。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。当時、「名」とは公の証明書、許可証、いわゆる「お墨付き」のことであった。自分の仕える主人の名、あるいは属する組織の名は、自分の立場や身分、ふるまいを担保する保証書のようなものであった。それが皆に知られている有名、有力な「名」であれば、その名を明らかにすることで、一定の振る舞いや行動が公に認められたのである。だからそういう後ろ盾を持たない「無名」の人は、生きる術を失っている状態ということである。その意味で、最初の教会に集った人々はほとんどが「無名の人」であった。大祭司たちは「名」を問うことで、弟子たちにどんな有力な後ろ盾があるのかを、確かめようとしているのである。

それに対してペトロが答える、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。有名かどうか、有力かどうか、公認されているか、お墨付きがあるか、そんなことよりも、その「名」自体の働き、その力そのものを見てください、論より証拠だというように。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」。

こういう伝承の中に、初代教会の実情、その具体的な有様、その営みの本質が、比喩的にではあるが、語られていると言えるだろう。彼らはイエスの名以外に持てるものはなかった。しかしその名が、生命としていかに生き生きと働いていたか、どれ程信じる者たちの力として支えていたかが、知れるのである。

河野裕子氏の作品、「朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの」という歌がある。この世に生を享けたばかりのわが子を詠んだ歌である。生まれた赤子が消えてしまうとは、「おおげさな」と思うだろうか。一日のすべてを赤子とともに過ごし、その存在を確かめていなければ「子は消ゆるもの」、母とはそんなに思いつめるものか。子育てを知れば、ほんとうに「子は消ゆるもの」なのだ。小さな命の、実はどんなにはかないことか。それを手のひらで包むように守り、育てていく果てしない繰り返しの日常のために、親はどんなに力をつくさねばならないか。

「名を呼ぶ」とは初代教会に集った人々が、熱心に主イエスの名を呼んで祈った、ということ以上に、主イエスからひとり一人の名が呼ばれていることを、日々味わいながら、生きていたということなのである。そうでなければ、自分たちは消えてしまう、しかし不思議に生かされて、今こうしてあるを得ている。「朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの」、そのような神の呼びかけ、ふれあいを今も私たちが受けていることを心深くに味わいたい。