こんな問いかけを聞いた。「ここに1本の缶ジュースがあるとする。これを二人の人に文句が出ないように分けるには、どうするか」。もう1本同じジュースを買ってくる、という答えがある。物質的解決である。また、Aがまず自分が半分だと思うだけをコップに移し、Bが好きな方を取る。こういう判断もある。交渉的解決である。またこういう方法もある。AはBに、どうぞ好きなだけ飲んでくださいとジュースを渡す。もちろんBはAのために半分以上残して、もう充分ですから後はAさんどうぞと返す。でも、Aは飲み干すようなことはせずに、私ももう充分ですからとBさんに渡す。相手への思いやりが含まれた人道的解決である。どれも知恵の発露だが、問題は、どれがより正しいかではなくて、その時その状況に当たって、どのような適切な判断を行うか、行うべきかなのである。
10章以下は、箴言の第二部「ソロモンの格言集」と題されるまとまりである。22章16節まで続くこの書の中での、最も大きな部分で、元々、「ソロモンの知恵の書」として独立していたものであろう。列王記上5章12節によれば、彼は生涯で三千もの格言を語ったと言われる。また歌を千五百首詠み、神羅万象、動植物博物学的知識に通じていたと言われる。このような伝承の背後に、ソロモン王が自分の王宮に、「知恵の学校」あるいは「知恵のアカデミー」を開設したことが想像される。そこには国内外の評判の知者たちが、知恵の教師として招かれ、さまざまな知恵、今日の文学、芸術、自然科学、工業技術等の知恵や知識が講じられ、論じられ、蒐集、伝承されたことであろう。その片鱗がずっと後代に、今日の箴言という書物にまとめられた。
この「ソロモンの格言集」には、古い時代、ソロモンの時代までさかのぼるであろうとみなされる古い格言から、新しいもの、おそらく紀元前4世紀頃までの格言が収められていると考えられるが、「知恵」の性格として、時代を超える「普遍」という側面がある。時代を超えて語られ伝えられた知恵の言葉を、しっかりと味わいたいものである。
「ソロモンの格言集」は、イスラエルの知恵の語り方の習慣に従って、二行、二つのセンテンスで、ひとつの意味を表す文体を構成している。新共同訳では、主に「主に従う者」と「主の逆らう者」という2つの相反する事柄が対比されて、順に語られていく。「対置法」と呼ばれる構成を持っている。但し、途中のいくつかの節で、この章では10節、18節、26節で、同じ意味の言葉が重ねられ意味を強める「並行法」が用いられ、言葉の調子やリズムに変化がつけられる。元々はこういう格言のような教えは、教師が口にした言葉を、そのままオウム返しにすることで記憶され、伝承された、所謂「素読」や「声明」の類である。また時には、一行目を教師が呼びかけ(発問し)、二行目を学生が応えるという方法も取られたし、時には、「類比」といって同じテーマの事柄を続けて発言して、知恵を展開させる手法も取られた。23節にあるように、いろいろな手法で知恵の学びを展開させるのは、「知恵を楽しむ」ことであったのである。知恵の学びの目的は、実に「楽しむ」ことなのだ。但し「楽しい」ことが、即「楽」ではない。
今日の個所を、先ごろ公刊された『協会共同訳』と比較しながら読み、味わいたい。並べて読むと、随分、違いがあることが分かる。協会訳の方が、センテンスが短くはきはきと訳している。平易な表現も多く用いられている。他の書物は、それほど翻訳の大きな違いは感じられないが、箴言は訳が大幅に変わっているように見える。箴言の翻訳が難しいのは、その背後に日常の生活があり、人々の生きる現実が見えないと、言葉のリアリティが了解されないことである。言葉の奥の「生活の座」の理解が不可欠なのだ。最近は歴史学でも、こうした日常の生活の再構成的視点が、強調されている。
10章の翻訳を比較すると、新共同訳で「神に従う人」、「神に逆らう人」という用語が、協会訳では「正しき者」「悪しき者」と訳し直されている。直訳調なのは協会訳で、従来の訳に回帰している。協会訳は箴言ばかりでなく、概して保守的な翻訳に戻っている感がある。ただどちらの訳にしても、その用語の背後にある事柄を了解するのは、簡単ではない。例えば「神に逆らう」とか「悪しき者」とは、そもそもどういう人のことを指すのか。
ここで「正しき者」は、原語で「ツァデク」という旧約で最も頻繁に用いられている用語が用いられている。「正義」と普通は訳されるので「正しい」という訳語が出てくる。ところがこの「正義」は、人間の清廉潔白を表すのではなく。まず神の属性とされる。だから「神に従う人」という翻訳が出て来るのである。では神の正義とは何か。
それは「奴隷であるイスラエルの苦しみの叫び」を聞く神の心のことである。そしてその叫びを聞いて、救いの出来事を行う神のみわざのことである。つまり神の憐み、慈愛、恵みこそが、「正義」という言葉の主なニュアンスということができる。だから「正しい者」とは、「神の憐みによって生かされている者」ということで、自らも「憐れみを深い者」という意味になる。そして「悪しき者」とは「情けない者、憐みに無関心な者」となる。だから12節の名言が生まれても来るのである。「愛はすべての罪を覆う」。これがイスラエルの正しさなのである。神の憐みにすべては根ざしている。しかしどこまで細かく訳すかが、翻訳の最大の問題なのである。「正しい・悪い」これだけのことで、言語学的には大議論となる。
協会訳はかなり平易に訳されているので、余り細かく立ち入れないが、若干説明を要するところを指摘する。10節「目くばせ」、「目で合図を送る」ことは、言葉によらない了解ということで、不正の最たるものである。この国の「忖度」を、ユダヤ人は非常に嫌う。
15節「金持ちの財産」、ユダヤ的人生観、財産は神の祝福の表われである。逆に「貧困」は、神の罰である。箴言の持つ因果応報的価値観の典型だが、「貧困」を「廃墟」に喩えることで、「空虚」「虚しさ」の意味として、どんなに富んでいても、虚しさを抱えていたら、それは「貧困」なのだ、という意味合いをも、示唆している。
最初に、一本のジュースを分ける方法について記した。おまけにもう一つの問いはどうか。おいしそうなジュースがコップに注がれている。のどが渇いていたので、ぐぐっと飲んだので、半分ほどになった。コップの中の半分のジュースを見て、どう思うか。「もう半分しかない」、あるいは「まだ半分ある」、どちらも同じものを見ての感想である。「もう」と「まだ」、同じ事柄に処する姿勢もまた、いつも同じではない。