「残ったパンの屑を」ヨハネによる福音書6章1~15節

いくら歳月を重ねても、何か新しいもの、知らない事柄に出会う、というのはうれしい体験である。訳知り顔に、すべて分かったつもり、というのは高慢というよりは、つまらない生き方の極致だろう。就中「ことば」は、新しい出会いの経験の最たるものでもある。つい最近、「ハリラクダ」という言い方、慣用句があることを知った。ある新聞のコラムで紹介されていた。「30年ほど前、国会取材を担当して間もないころに『ハリラクダ』なる言葉を初めて聞いて、まごついたことがある。自民党の国対幹部が語るには『その日程で、○○法案を通過させるのはハリラクダだ』。無論、『針の穴にラクダを通すようなもの』の略で、不可能なことのたとえである。キリスト教の聖書にある言葉からきているのだが、切った張ったの政治の世界で聖書の言葉が使われるのがどうも不思議な気がした(「筆洗」1月21日付)」。

「ハリラクダ」というもの言いを初めて使った人は、誰なのだろう。国会で口にされるとうのだから、語源はどこぞの政治家先生なのだろうと想像するが、一体どんな人物だったのか、どんな政策を語ったのか、いささか興味がある。政治の世界では、常に「ハリラクダ」のような厄介な問題ばかりが噴出して来る。そうした課題に「ハリキッテ」臨まなければ、職務を全うできないだろうし、いい加減に誤魔化したら「ハリアイ」はないだろう、また手をこまねいていれば「ハリノムシロ」に座らされることも、時にはあるだろう。「ハリハリハリ」と思いは巡る。実に、この「ハリラクダ」は、主イエスの弟子たちにとっても、心底、共感する言葉ではなかっただろうか。「先生、おしゃられることは分かりますが、しかし」と言いたくなることが、宣教活動の中で、幾度あったことだろうか。

今日の聖書個所、「五千人の給食物語」を取り上げる。この記事は、四つの福音書すべてに収められている、ということは、初代教会にとって、非常に重要な伝承とみなされていた、ということである。それはかつて主イエスが行われたみわざ、それも極めてインパクトが強かった想い出の記憶というばかりでなく、まことに「大勢の人が、主イエスと共に食事をする」、という情景は、やがて来るべき神の国、天国のヴィジョンを表すものと理解されたのである。つまり神の国は、神が招かれた多くの人々が共に食事をするようなものだ、いわば神が主催される盛大な大宴会に喩えられるのである。そして主イエスはその有様を、この世で、この日常で、私たちが直に分かるように先取りして語ってくださったのだ、と。しかしそれ以上に、教会は、こうした主イエスの示されたヴィジョンを、自分たちができる範囲で、再表現しようとしたのである。

しかしそこでも、弟子たちは何度も「ハリラクダ」を痛感したことであろう。5節「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」、教会は最初から今も、「食卓共同体」である。神が呼び集められた人たちすべてと、共に食事をすること、それが「礼拝」であり「宣教」であり、「祈り・讃美」であり「癒し」でもあった。しかし、食卓を整えることは、決して容易く簡単なことではない。それぞれの家庭の様子を思い浮かべればすぐにそれと知れるだろう。今まで外で働いていたご主人が、定年退職でずっと家に居るようになると、奥様は一日三度の食事の世話が苦痛になる、とも聞く。初代教会は小さな群れであったが、それなりの人数は集まるのである。

だから「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」、ここに初代教会の生の声、うめきが響いているのではないか。「足りないでしょう」「何の役にも立たないでしょう」。主イエスは弟子たちに、「あなたがたの手で、パンを食べさせなさい」、と言われた。だからそのみ言葉に従って手を動かし、頭を働かせ、足を運び、食卓を整えようとする。ところが「ハリラクダ」である。「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

こんな詩がある。作者は不詳であるが、今日のこのテキストから生まれた作品であろう。“Love is like five loaves and two fish,always too little”「愛は五つのパンと二匹の魚のようなもの、いつも、あまりにわずか過ぎる」、愛というものは、いつも足りない、足りない、それでは不十分、そんなもので何の足しになるか、何の役にも立たない、と言われる。「焼け石に水」、かつて義父の家が、隣家の失火から全焼したことがあった。長年住み慣れた住まいであった。延焼して火が付き燃えている家に、寝間着姿の義父は、ホースでちょろちょろ水をかけ始めたのである。「そんなことをしても仕方がない、無駄だ、危ないから逃げよう」という家族の声にも気づかない体で、一心にわずかな水を掛け続けている。それは長く自分の生活を支えた居場所、拠り所に対する「愛」の発露であったろう。しかしそれはいつも「足りない」「何の役にも立たない」という現実に突き当たるのである。

そして一番の問題は、そのところにある。初代教会の人々、そして今の私たちも、同じ「ハリラクダ」の体験をするのである。「足りない」「何の役にも立たない」、ではそこでどうするか。1つに潔く「止める」という決断がある。「勇気ある撤退」と言うではないか、止めるのも実は楽ではない、無責任に尻尾を巻いて、ほうほうの体で逃げ出す、なんてことは口で言うほど簡単ではない。多くの場合、「止めようと思ってもなかなか踏ん切りがつかず、自分の気弱さから『止める』と大ぴらに言い出せずに、今まで続いている」、というのが実際のところではないのか。これは私などが言っても一向に説得力はないのだが、実はこの言葉は、故中村哲氏が、ペシャワール会の活動の推進力を問われた時に、口にされた言葉である

「勇気ある撤退」なるものができないとなれば、他にたどるべき道やできる手立てはないのか、初代教会の人々が求めたのは、まさにそこである。先ほどの詩は、短いがまた続きの章句がある。こう続く“until you start giving it away”「あなたがそれを分かち合い始めるまでは」。「足りない」「何の役にも立たない」これは変えようがない、変わりはしない。しかしその足りなさを、役に立たなさを、そこで放ってしまわないで、切り捨ててしまわないで、誰かと分かち合うことがあるとしたらどうか。

私たちは賢く計算高いから、損することはしたくない、くたびれもうけはご免である、採算が取れないことをやるのは無益である、という現実的?判断をしばしば行う。しかしそれしか行動の物差しはないのか。それは正確で緻密かもしれないが、大して面白みはなさそうである。人間の予想を超えたことは、起こりようがないから。では最初の教会に集められた人々は。どこに目を向けたのか。もちろん主イエスのみ言葉である。それしかなかったから、真剣にそこに向かい合ったのである。向き合えるものがある、それが彼らの力であった。

6節「御自分では何をしようとしているか知っておられた」、さらに11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」。この主イエスのみ言葉、そしてなされたみわざ、ここにこそ、主の弟子たちの目は向けられたのである。「これしかなかったから」ここに目を向け、主イエスの言葉とわざを、皆で共に分かち合ったのである。これこそ「ハリラクダ」に対処する術ではないか。

12節「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」。そしてこのパン屑で養われ、パン屑で支えられ、パン屑で力を与えられているのが、教会である。今も変わりなく。「少しも無駄にならないように、パン屑を」、これが教会なのである。

先月の17日に、ある新聞に次の記事が掲載された。「被災地の神戸でテレビのニュースキャスターが尋ねた。『あなたが今、一番欲しいものは?』。大人は水、食料、家、お金と生きるために必要な物を回答。しかし、小学生の男の子はこう答えた。『友達の命』。能登半島地震で石川県が、遺族の同意を得た犠牲者の氏名の公表を始めた。誰かの「友達」だったであろう10歳の小学生も含まれている。名前は生きた証しの一つ。名前を受けて初めて生を得られる気がする。だからこそ『命名』というのかもしれない。阪神大震災では6434人が命を落とした。人はみな、命のつながりの中で生きている。被災地で男児が欲しがった『友達の命』の意味に思いをはせる」(1月17日付「有明抄」)。

人がほんとうに必要とするものは、どうも人間の手では、整えられないようだ。「ハリラクダ」は、神の国の喩えとして語られたみ言葉である。神の手が働く時に、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」、という現実が、「なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」という世界に変わる。この有様を垣間見ることができるなら、何と生きていて幸だろうか。