三月も、下旬を迎えた。この月の和名「弥生」の語源は、「木草弥生月(きくさいやおいづき)」の短縮形といわれる。「弥(いや)」は「ますます」という意味で、草木がますます生い茂る月という意味だと説明される。成程、庭の雑草の伸び方も、顕著になっている。
一方、英語で三月を表す“March”語源は、古代ローマの言語であるラテン語の“Martius(マルティウス)”に遡り、ローマの戦いの神である“Mars(マルス)”に由来するという。古代ローマ時代では、今の三月に新年を迎える。春を迎えるこの時期は各地で戦争が起きやすかったため、戦争を象徴する月とされた。冬が終わり、気候が暖かになり、戦争開始の時期到来であったことから、この名称が使われるようになった、という。こんなところにも戦争が顔をのぞかせている。厳しい冬を通り抜けて、ようよう暖かくなった、喜ばしい季節到来と思ったらすぐ戦争を始める、人間とは一体何なのであろう。
谷川俊太郎氏の作品に、「三つのイメージ」と題される詩がある。「あなたに/燃えさかる火のイメージを贈る/火は太陽に生まれ/原始の暗闇を照らし/火は長い冬を暖め/火は平和へのたいまつとなり/戦いへののろしとなり/火は罪をきよめ/罪そのものとなり/火は恐怖であり/希望であり」。最初は「火」である。火の働き、火がもたらしたものについて、その両義性、矛盾する働き、姿が語られる。次に来るのは「あなたに/流れやまぬ水のイメージを贈る/水は葉末の一粒の露に生まれ/きらりと太陽をとらえ/水は死にかけた けものののどをうるおし/魚の卵を抱き/水は子どもの笹舟を浮かべ/次の瞬間その子を溺れさせ/水はみなぎりあふれ/水は岸を破り家々を押し流し/水はのろいであり/めぐみであり」、「水」の持つ「呪い」と「めぐみ」、やはり両義性、矛盾する姿、働きが語られる。そして3つ目「あなたに/生きつづける人間のイメージを贈る/人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ/限りない謎にとりまかれ/人間は互いに傷つけあい殺しあい/泣きながら美しいものを求め/人間はどんな小さなことにも驚き/すぐに退屈し/人間は一瞬であり/永遠であり」、ここでもまた「人間」の両義性、矛盾する姿、働きが主張される。そして詩人は、こう呼びかける。「あなたに/火と水と人間の/矛盾にみちた未来のイメージを贈る/あなたに答えは贈らない/あなたに ひとつの問いかけを贈る」。大切なのは「答え」ではなく「問い」であるという。「火と水」これら2つをもって「人間」はその生活を組み立て、生活を営む。生きる根本的な事柄であるが、それらがはらむ両面性や矛盾やちぐはぐさを、何ものからか贈られた問いとして受け止めたらどうか、と詩人は詠う。あなたはどう応答するか、矛盾や相反するものを自身、自らが負って、堪えて担って、生きてゆくことはできるか。
今日の聖書個所は、マタイ福音書全体の流れの中で、分水嶺、頂点であると言ってもいい段落である。福音書全体を通して、マタイはこれを読者に問い、示したいのである。「ペトロ、信仰を言い表す」。これまでの文章の流れの中で、「ナザレのイエスとは誰なのか、何者なのか」という問いが、暗黙の裡に問われているのだが、この個所までそれに応えているのは、もっぱら悪霊たちなのである。人は主イエスが語るみ言葉を聞いて、そのみわざを見て、あっけにとられ、訳も分からずに不思議に思うのがせめてもで、ファリサイ派の人々のように、「ベルゼブルの頭」などと悪意に満ちた誤解を表明するのが、関の山である。「火、水、人間」といった当たり前のことさえ、人はその真実を確かに知ってはいないのである。福音書のここに至るまで、人間による信仰告白は全く語られてこなかった。却って悪魔や悪霊の口によって、ナザレのイエスを「神の子」「神の聖者」という信仰の表明がなされて来たのである。「悪霊や悪魔の口によって」とは、もっと身近な喩えとしても理解できよう。即ち、健康な時、順調な時、さほど問題を抱えていない時には、このイエスという方のまことが見えてこない。病気や、困難や自分にどうにもできない厄介ごとを抱え込み、自分の十字架を負わされる時に、ようやくこの方の前に立つことが出来て、その真実が見えるようになる、ということであるかもしれない。
13節「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と(主イエスは)お尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」、そう問われてペトロは答える「あなたはメシア、生ける神の子です」。このペトロの信仰告白は、主イエスの言葉に促されてなされたものである。ここにその最も肝心な点がある。自分の努力や精進で攫みとった確信や信念、あるいは真理探究や研鑽の結果、主イエスを信じる信仰の言葉、信仰告白が生まれて来るのではない、まず主イエスからの呼びかけがあって、その促しによって、引き出されるものなのである。向こうからの呼びかけなしに信仰のことばは、生まれてこない。
主イエスは訊ねられる「人々は、人の子(私)を何者だと言っているか」。弟子たちは答える「洗礼者ヨハネ、エリヤ」、これを受けて、重ねて主は訊ねられる「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。ここに信仰告白を行うことのすべてが言い尽くされているだろう。「それでは、あなたは、何と言うのか」。世の人はいろいろ言うであろう、またあなたの隣にいる人も、さまざまに語るだろう。それはどうでもよい、あなた自らはどう呼ぶのか。どう見なすのか、あなたの答えは、どうなのか。たとえ拙くとも、未熟でも、風変わりでも、人から何と言われようとも、あなたはどう言い表すのか、と主は訊ねられる。だからこそ「主イエスとわたし」の、わたしだけの繋がりが生まれるのである。信仰において、主イエスとわたしの他、余人の入る余地はない。
「あなたこそメシア(キリスト)、生ける神の子」。おそらくこの信仰告白は、最も古い教会の信仰の言葉であろう。「キリスト、神の子、インマヌエル(わたしたちと共にある方)」、最初の教会の信仰の言葉が、こんなにもシンプルで単純明快であったことを、是非覚えたい。そもそも神の真実は単純で明快なものだ。おどろおどろしく、あるいは仰々しく飾り付けられるものは、大抵、人間のわざとらしい作為と欺瞞に満ちている。
これに対して、主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と応答される。「この岩の上に」とは何を指しているのかが問題となるだろう。教会はこの語が何を指しているかで、大議論を重ねてきた経緯がある。「ペトロ」とは一番弟子シモンに付けられた、主イエスご自身によるあだ名である。この愛称名は「ペトルス(岩)」という言葉から来ている。おそらく「岩ちゃん」という程の意味だろう。彼はそういう風貌、あるいは気質の持ち主だったのだろうと思う。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」、すると「岩の上に」とは「ペトロの上に教会が建てられる」ということか。カトリック教会はそう理解して来た。他方、プロテスタント教会は、「岩の上」を「信仰告白の上に」と理解した。日本基督教団の教会でも、信仰告白の持つ重さがしばしば議論されている。しかし、これは「ペトロ」か「信仰告白」か、というどちらが正しいか、という問題なのか。この文言の一番の強調点は、「わたしは、わたしの教会を立てる」と語られるところである。教会は、主イエスがご自分のこころで、ご自身のわざとして立てられるものである。ペトロであろうと、他の弟子であろうと、信仰告白であろうと、私たちの働きであろうと、それは二次的、三次的なおまけに過ぎないだろう。
「あなたこそキリスト、メシア、生ける神の子」、こう答えるペトロもまた、主イエスが十字架への道、受難を口にされると、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」、「引き下がれ」とは「後ろに回れ」という意味である。ペトロを始め、私たちのやること為すことは、「主のため」とは思ってはいるが、その実、歩みの前に立ちふさがり、行く道のじゃまをするくらいのものだ。そんな私たちが、今ここで、真正面から「ナザレのイエスとは誰か」が問われるのである。さて何と答えようか。
初めに紹介した詩「三つのイメージ」その末尾にこう詠われる。「人間は一瞬であり/永遠であり/人間は生き/人間は心の奥底で愛しつづける/──あなたに/そのような人間のイメージを贈る」。広大な宇宙、大自然の悠久の時の流れからすれば、人間のいのちは一瞬(つかのま)の間、しかし人は、永遠を思い、そこにつながって、ふれあって生きてゆくことが出来る。だからいのちというその一瞬を惜しみ、かけがえのないものとするからこそ、誰かを、何かを愛し続けるのである。十字架で悲しみの道、傷みの道を歩む主イエスの姿を見て、その苦しみの声を聞いて、そこに愛のみ言葉を聞くのである。その方は私たちに告げる、「あなたはわたしを誰と言うのか」、これは、「あなたに愛はあるのか、心の底で愛し続けるか」という呼びかけである。これにどれ程貧しくて小さくて、かすかな声でも、自分の口で、こころで答えることが出来るなら、「あなたは幸いだ、あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。この神の咲き和う、さいわいの中に人は生きるのである。