祈祷会・聖書の学び ヨハネによる福音書1章19~34節

讃美歌続編『ともにうたおう』に所収の「ひとりの手」は、アレクシス・コンフォートの原詩を元に、ピート・シーガーが曲を付けて歌い、広く世に知られるようになった。この国では、フォーク歌手の本田路津子氏によって歌われて広まったという経緯がある。親しみ深い曲と訳詩で、かつては生協の配達トラックがテーマソングとして採用して、この曲を鳴らしながら行き交っていたものである。これが流れると地域の組合員は、「生協が来た」とばかり集まり、自然に人の輪ができたのは懐かしい思い出である。

この歌の歌詞、コンフォートの原詩には、こう記されている。“One man’s eyes can’t see the future clear…One man’s voice can’t shout to make them hear…One man’s strength can’t ban the atom bomb…One man’s strength can’t roll the union on…But if two and two and fifty make a million,”「ひとりの人間の目は、はっきりと未来を見晴らすことはできない、ひとりの声は彼らに聞こえる叫びとはならない、ひとりの力は、核爆弾を止めることはできない、ひとりの力は親しい人の輪をつくれない、しかし、2と2と50を足して100万になるなら」、ピート・シーガーの歌は、この原詩の持つ味を最大限に伝えようとしているように感じられが、それでも詩のすべてが歌われている訳ではない。この「ひとりの声」をどのように受け止めれば良いのか。

今日の聖書個所は、新共同訳では「ヨハネの証」、そして「神の小羊」と題されている。バプテスマ(洗礼者)ヨハネが自らについて、そしてナザレのイエスについて語るという内容である。福音書記者にとって、洗礼者と主イエスとの関係について記すのは、非常にデリケートな問題にふれることでもあった。主がヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けたのは公に周知の事実であり、書かないわけには行かないのだが(キリスト者となるために洗礼を受けることの一番の根拠は、ここにあるのだから)、そうなると主がヨハネの弟子ということにもなるのである。歴史学的にも、ナザレのイエスは一時期、ヨハネのグループに属しており、やがてその群れから離れ、彼の捕縛後に独自の活動を始めたと推測されている。そこで当然のことながら、洗礼者は自分を何者だと考え、イエスを何者だと理解していたのかが、どうしても明らかにされなければならないのである。各福音書の記者たちは、それぞれの方法で、この両者の関係を描いている。そしてヨハネ福音書の著者は、他の福音書に増して象徴的な用語により描写を試みているのである。

エルサレムからやって来た祭司やレビ人(おそらく中央に情報を伝えるためだろう)が彼に問うた「お前は何者か」。すると彼はこう答えたという。「彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリヤですか』と尋ねると、ヨハネは、『違う』と言った。更に、『あなたは、あの預言者なのですか』と尋ねると、『そうではない』と答えた」。この問答には、洗礼者の慎重な態度がにじみ出ている。下手に言葉尻を捕らえられると、自らの身に危険が及ぶかもしれないということを彼はよく知っている。但し「公言して隠さず」という文言には、彼の偽りない自己理解も告白されているだろう。彼はやはり「メシア」はやがて来るべきダビデの子であり、ローマの軛を打ち砕く天的な王というヴィジョンを抱いていたのである。

それでは何者か、と問われて彼が口にしたのは、旧約の預言者のみ言葉である。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」これは旧約の預言者、仮に第二イザヤと呼称されている無名の預言者のお告げの言葉である(40章8節)。この預言者は、「バビロン捕囚」の苦しみの中にあるユダの人々の間で活動したとされる「捕囚期の預言者」である。彼は異郷の都バビロンに捕らわれている民に、慰めを語った人である。「間もなくバビロンからの解放の時が訪れる、その時には、荒れ野を越えて、あの懐かしい故郷に帰って行くのだ、荒れ野に響く声があなたがたに聞こえないか」。彼はイスラエルの民に、かつて先祖たちが出エジプトの後、40年にわたって荒れ野の旅をしたことを想起させようとしている。荒れ野は生命に乏しい生きるに困難な場所、さらには野獣や悪霊の住処である。しかしそこで神は常に民と共にあり、なによりもみ言葉をもって心と身体を養ってくださったのである。

その故事を踏まえてヨハネは、自分のことを「荒れ野の声」だと言い表すのである。「声」であるから、その姿は目に見えないのである。武器も戦車も持ち合わせることなく、洗礼者はただらくだの皮衣を纏って、荒れ野で声を上げるのである。そして悔い改めのバブテスマを執り行う。ヨルダン川の水を灌ぐ洗礼である。水であるから、これもまた痕跡の残ることがなく、人の目には消えてしまうものである。ヨハネは見えるもの背後にある見えないものを、「ことば」として自らを指し示すのである。

さらにナザレのイエスを「神の小羊」として言い表す。これもまた荒れ野の「声」と同じく、見えないものである。イスラエルの初期には、罪の贖いは、小さな山羊や小羊に人々の罪を担わせ、荒れ野に放逐するという「転移呪術」が行われたという。荒れ野に送られた家畜が見えなくなって、つまり犠牲となって罪とがが許されるという観念である。

荒野の声であるヨハネも、またあとから来られる主イエス、肉となったみことばも、この世的には人が発するひとつの小さな声に過ぎないかもしれない。しかしそのひとりの声は消えてなくなって、胡散霧消してしまうのか。「ひとりの手」の原詩では、「ひとつの声が、2と2と50を足して100万になるなら」と歌われる。これは決して「数がモノ言う、数こそ力」という主張ではないだろう。言葉の共有、言葉が分かち合われる時に、それは抑圧や圧迫、人を踏みにじる暴力に対抗する力となるであろうという希望を語るものである。しかしそれはどのように実現するのであろうか。

ヨハネは、主イエスを「聖霊のバプテスマを授ける方」と告白している。これは後に教会誕生の出来事となった、「聖霊降臨(ペンテコステ)」を示唆するものである。それはことばの回復の出来事、主のみ言葉が弟子たちの口によみがえって、それがそこにたまたま居合わせた多くの人々に聞かれ、分かち合わせ、うねりとなって人がっていた様が伝えられている。荒れ野の言葉は、風のような聖霊の働きによって、波のように世界に拡がり、人々に分かち合われるのである。それは決して消えてなくなりはしない。