皆さんのお宅で、ぶどうを栽培されている方はあるだろうか。小さい頃、私の実家の軒下にぶどう棚が設えられていた。夏になると小さな実が付き始める。秋になると色づき実るのだが、口に入れるととても酸っぱい葡萄であった。おそらく食べるためではなく、緑の葉で夏の暑い日ざしをさえぎるために植えられたものであろう。家にぶどう棚を作ることが、流行した時代があるのだろうか。しかし、果実が実るというのは、楽しみである。素人は、小さな実がたくさん付くのがうれしくて、もったいなくて、全部を育て、全部を収穫しようとする。つまり欲張りなのである。全部を育て、全部を収穫しようとして、無理な相談である。自然とはそういう風に出来ていない。ぶどうに限らず、人生の良い収穫というものは、欲張りのところからはどうも生まれないらしい。全部ではなしに、いくつか、否、イエスの言われるように、大切なものは、ただひとつだけ、では、そのただひとつ、どのようなただひとつの果実を育てようとするのか。
ぶどうにまつわる思い出で、一冊の本がある。有島武郎著『一房の葡萄』、掌編であるが、美しい物語である。著者は洗礼を受けたキリスト者である。日本の作家にはひとつのパターンがあって、洗礼を受けた人物が結構多いのだが、後になって信仰を捨てた、と評される人が多い。こんなあらすじである。主人公、日本人のぼくは、横浜のインタナショナル学校に通う生徒である。気が弱くて、素直に親にものをねだることが出来ない。絵を描くことが好きだが、絵の具の質が悪く、いい色が出ない。クラスの外国人の生徒が持っている舶来の洋紅色、赤い絵の具が欲しいと思う。でも正直に親に言えない。それがあればもっと見栄えのする絵が描けるのに。ある時、欲しいという思いが嵩じて、魔がさして、その外国人の生徒の絵の具を盗んでしまう。しかし自分が盗んだことがばれてしまい、クラスが大騒ぎとなり、担任の若い女先生のところに引き立てられていく。その後どうなるかは、各自で読んで欲しい。「一房の葡萄」が二つに分けられ手渡される。和解と許しの象徴として、実に上手い小道具として用いられている。「一房の葡萄」とは有島にとっての「キリスト論」であり、そのキリストとは、許しと和解そのものなのだろうと想像する。
今日の聖書の個所、キーワードに「手入れをする」という言葉が見える。皆さんはぶどう畑を見たことがあるか。ぶどうの名産地で栽培されているぶどうの木は、驚くほど小さい。ぶどう作りに伝統があって、随分、長い間、育てられている木でも、決して大きくはない。素人目にも、手入れが行き届いていると分かるほどである。ぶどうの木の手入れとは、どうすることなのか。聖書の「手入れする」と言う語は、直訳すれば「刈り込む」という言葉である。ひとつの枝にぶどうはひと房、それ以外の他のぶどうを全部刈り込み、取り除くのである。そして徹底的に刈り込むのは収穫の後である。今年のぶどうが実った枝は、すべて刈り込み取り除くのだという。すると新しい枝が伸びて、そこに新しい実が実る。古い枝では、良いぶどうは決して実らない。新しい枝にしか良いぶどうは実らない、何か考えさせる譬えである。ここでも古い枝ばかりに、実を求める私たちの姿が見え隠れする。イエスの言葉には、こうしたぶどう栽培の確心が、きちんと映し出されている。つくづく彼は本当に生活者である。
1節「わたしはまことのぶどうの木。わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら実を結ばない枝は、農夫がこれを刈り取り、また実を結ぶ枝は、もっと豊かに実を結ぶように、刈り込むのである」。主イエスばかりが働き人ではない、彼によれば、神こそ農夫、百姓であるという。何より地から実りを得るために、手を土に染め、土を耕し、種を撒き、水をそそぎ、顔に汗して働く方こそが、神だというのである。この世界は神のぶどう畑であり、そのぶどうの木を神自らが手入れをなさるのだ、という。主イエスにとっての神は、じっとしている方ではなく、まず働かれる方なのである。
かつてマレーシアのサラワク州で宣教師をされ、今は広島の田舎に「共生庵」という名の生活塾を主宰されている牧師先生がおられる。農家と田圃を借り受けて、土を耕し、聖書を読み、祈る生活をされている。リトリートのための宿泊もできるとのことである。この方が、そこで初めてのお米栽培をした時の経験談が興味深い。全くの素人が、無農薬、有機栽培、除草剤も使わない、と大見得を切ったところ、隣近所の農家の人たちは、この日本で、そんな無理なことはやめなさいと親切に助言してくれるのだが、大見得を切った手前、後には引けない。これこそホントの「勇気」栽培と嘯いた。暑くなると草取りをしなければならない。草の伸びは早く、数日むしらなかっただけで、田圃は雑草だらけ。ついに草取りを放棄して、有機栽培ならぬ「放棄」栽培、と自嘲したという。さて秋の収穫期となり、どうなったか。そんなに広くもない雑草だらけの田圃から、数トンの玄米が収穫されたというのである。目の前に積み上げられたいくつもの米俵を見て、先生はへなへなと腰をぬかしてしまったという。一体全体、本当に働いたのは誰なのか。「わたしの父は農夫」このみ言葉に打ちのめされたという。
「わたしはまことのぶどうの木。わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら実を結ばない枝は、農夫がこれを刈り取り、また実を結ぶ枝は、もっと豊かに実を結ぶように、刈り込むのである」。ぶどうの豊かな実は、神が私の枝を刈り込むことによって生まれる。自分の枝をいくらでも延ばしたい伸ばしたいと人間は思うが、神はその枝を刈り込まれる、という。このみ言葉をこころ深く受けとめて欲しい。そしてこう続けられている。「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」。すでに清くなっている、と訳すと誤解が生じるかもしれない。この「清く」は「刈り込む」とまったく同じ言葉が使われているのである。主のみ言葉によって、刈り込まれている。ぶどう作りの農夫は、古い枝を刈り込むという。ひとつの実が豊かに結べるように枝を刈り込む、という。主のみ言葉を聴くとは、み言葉によって枝である私たちが、豊かに実を結べるように、刈り込まれることだというのである。つまりただ主イエスのみ言葉が、豊かな実をつける一番の力なのである。自分の力を奮い起こして、良い実を結ぶというのではない。主につながって、主イエスのみ言葉に聞き、それに賭けるならば、必ず良い実が生まれ出る。
ここで思う。主イエスの育ててくださる実とは何だろうか。許しと和解の実、信仰、希望、愛、という実、満足という実、平安、安らぎという実。神は自らにふさわしい実を、実らせてくださるであろう。なぜなら7節にはこうある「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」、み言葉に促されて祈るなら、そのようになる、と主イエスは約束されている。み言葉から、み言葉によって、み言葉に励まされて祈るなら、それを父はかなえてくださる。これはやってみる価値があるのではないか。