祈祷会・聖書の学び ヨハネによる福音書17章19~26節

鶴川北教会は「日本基督教団」に連なる教会の群れの一教会である。「日本基督教団」の英語名は“The United Church of Christ in Japan(UCCJ)”であるが、”United”とは、「合わせられた、ひとつにされた」という意味合いである。この辺りの事情を、「沿革」はこう記している「わが国における福音主義のキリスト教は、1859(安政6)年に渡来した外国宣教師の宣教にその端を発し、1872(明治5)年2月2日(旧暦)横浜に最初の教会として,日本基督公会が設立された。この教会は外国のいずれの教派にも所属しない超教派的な教会であったが、その後欧米教会諸派が移植せられ、その宣教が国内全般に発展するにともなって、教派の数もとみに増加するようになった。これと共に他方各派の間にしばしば合同の議が生じ、海外における教会合同運動の刺激もあって、ついに全福音主義教会合同の機が熟するに至り、たまたま宗教団体法の実施せられるに際し、1940(昭和15)年10月17日東京に開かれた全国信徒大会は、教会合同を宣言するに至った」。これで知れるように、「ひとつにされた教会の群れ」が、他ならぬ教会の姿なのであるが、「ひとつ」とはどういった事態を表すものなのだろうか。

「ひとつ」というと、思い浮かべるのが、みな同じ形で、違いや差異などが感じられないという状況である。人間に例えて極端に言えば、皆、同じ服(ユニフォーム)を着て、同じ表情をして、同一の動きや行動をして、という風に、軍事パレードやマスゲームに典型的な整然とした様子と表現できるだろうか。

こういう文章がある「同じであるということと、一つであるということとは、全く別のことです。同じであるものの間には、対立も緊張も分裂もなく、従って発展も成長もなく、生命はそこにおいて存在しえません。同じとは死の相です」(藤木正三『神の風景』)。「一つ」と「同じ」を混同してはならないという洞察は、傾聴に値する。家庭や家族を見ても分かるように、そこには不和や誤解、争いが皆無、という訳ではなく、却って関係が近いがゆえに、対立も一層エスカレートするということも、決して稀ではない。主イエスが語るのは「同じ」ではなく「一つ」ということである。

今日の聖書の個所に、「すべての人を一つにしてください」という主イエスの祈りが記されている。福音書によれば、福音の宣教は、主イエスご自身による弟子の召命をもって始まる。いわゆる「十二弟子」が最初に招かれた人々とされているが、「十二」という数字は多くの文化で、一年の月の数と合致するために、「聖数」と見なされることが多い。聖書においても、ヤコブを祖とするイスラエルの12部族という表象に見られるように、象徴的な数である。聖書学者は、この数字から古代イスラエルの部族連合体は、月毎に持ち回りで「ひとつの聖所」の維持管理を担当したという痕跡を見出す。そして「十二弟子」には、初代教会における「新しいイスラエル」という理念が、強く反映されていると理解できるであろう。

最初に弟子となった12人について、福音書はいくらかのプロフィールを添えている。シモン・ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネらは「漁師」であり、マタイは徴税人、もう一人のシモンは熱心党員(ゼロータイ)、イスカリオテのユダは、主を裏切った弟子だと記されている。それほど詳細な情報は伝えられていないが、種々雑多は出自や出身の者で、さまざまな職業に従事していた者たちが、主イエスによって「一つの」群れにされたというニュアンスを伝えている。古代にあってはこのような関係は稀有であったと思われる。大方の人間の集団は、社会的地位、職業、地域等、同一同質的な要素を強く有しているものであったから、そこからすれば、主イエスの群れは当時の常識からすれば、いささか異様な団体であったとも言えるだろう。そういう中で「すべての人を一つにしてください」と主は祈られるのである。ここから知れることは、簡単に「一つ」にはなれない、人間の現実の姿があるということだろう。

「一つ」ということを、祈りの中で主はこのように言葉を添えている「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」。「内にいる」と訳されている用語は、直訳すれば「~の中に」あるいは「~にあって」という前置詞で、「分かち難く、不可分に、離れがたく結びついている」という意味合いである。しかしそうではあっても、交じり合いそれぞれの形が失われてしまうのではなく、独立した個性(ペルソン)を保っている状態である。これは後代のニカイア信条で「(父と子の)同質(ホモ・ウーシオス)」と告白される文言の源ともなった考え方とも言えるだろう。

主イエスが十字架上で息絶えようとする時に、「エリ エリ レマ サバクタニ(わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給いしや」という絶望の叫び(祈り)を発した時にも、主イエスは、「わたしの神」と呼びかけ、神に向かい、父と離れてはおられないのである。そしてこの父と子の不可分なつながりは、主イエスと私たちとのつながりにまで広げられるのである。22節~「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。神は、十字架の苦しみの時にも、主イエスから離れず、一つとなって十字架のもとにいてくださった。それこそ神としての栄光の現わし方なのである。一つであることを神殿の至聖所の幕、神と人とを隔てる壁、を裂くことによって、私たちに示されたのである。それは主イエスにあってわたしたちもまた、一つであることのしるしであったと言えるだろう。

「一つとは、相違するものが対立をはらむ緊張の中で、忍び合い譲り合い、理解し合いそれぞれの分に応じて働き、助け、補い合って、結ばれて行く努力のこと、…生命あるものは皆、相違しています。そして一つであることを希求しています」。先に紹介した藤木氏の文章の続きである。私たちが一つであることを、主イエスは祈りの内に語ってくださったことを、深く心に留めたい。教会の群れもまた人間の集まりゆえに、議論があり緊張があり、相違があるだろう。しかしいくら人間同士のぶつかり合いがあったとしても、最後に主にあってアーメンと唱和するなら、私たちは一つなのである。