関東地方も梅雨明けとなり、本格的な盛夏が訪れた、と言いたいところだが、今年も梅雨明け前から真夏日、猛暑日、酷暑日が続いている。こうまで暑いとついつい冷たい飲み物に手が伸びる。ある新聞のコラムにこうあった。「『ビールを飲めば誰だって眠くなる。眠れば罪を犯さない。罪を犯さずば天国へと行ける。さあ、ビールを飲もう』。ビール党なら大きくうなずく広告文か。さにあらず。歴史的人物と関係がある。宗教改革の立役者ドイツのルターの言葉と伝わる。欧州の酒場ではこの文句を張り出すところもあるそうだが、出典がはっきりせず、どうもルターの言葉というのはまゆつばらしい。ただその人がビールを好んだのは事実という。ルターはどんな顔をするか」(7月15日付「筆洗」)。
「説教は苦痛だ、日曜日の午後には、ビールを飲みながら子どもたちと歌を歌って過ごすにしくはなし」とも語っているという。このように彼にまつわる諸種の逸話を耳にすると、「宗教改革の立役者」という謹厳実直、厳めしいイメージの背後にある見えない人柄(親しみやすい?)も、豊かに知ることができるのではないか。見てくれや外面ばかりがその人の真実を語っているのではない。
今日取り上げる聖書個所は、元来のヨハネ福音書の末尾となっていた部分である。30節「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」。福音書の著者は、既成の諸福音書や諸教会に伝えられているたくさんの伝承を聞き知っているのであろう。それを全部記述するなら、収拾がつかないことにもなるから、潔くこの辺りで物語を閉じよう、と宣言するのだが、ヨハネの後を継いだ弟子たちが、もう少しおまけをつけたい、という心情抑えがたく、現在の福音書には先延ばしがされている。おまけの方に心が捕らえられるような興味深い「補遺」であるのだが。
福音書を閉じるにあたって、やはり最後にいちばん言いたいことを語るのが、物書きというものだろう。末尾に「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と締めくくりの言葉を記している訳であるが、これを主張するために、「トマス」にまつわる挿話を綴ることで、読者に印象付けようとするのである。
今日の聖書個所は、福音書中にトマスが登場する場面では、最もよく知られたシーンである。一説にトマスは、12弟子の中で「食事係」であったという。主イエスが十字架で息絶えられた後、弟子たちはユダヤ人を恐れて、一つ家に籠って、部屋に鍵を固くかけて息をひそめていたという。その部屋は「最後の晩餐」を共にした場所であったとも言われる。その鍵を固くかけたはずの部屋の真ん中に、復活の主イエスが現われ、弟子たちに出会われ、声を掛けられたのである。丁度その折も折、生憎なことに、トマスは皆で食べる食料調達のために買出しに出かけていた、という。部屋に戻ってから、他の弟子たちが復活の主にお会いして、喜び、さんざめいているのを見て、余程悔しかったのだろう。こう見えを切る、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」ここから“Doubting Thomas”(疑いのトマス)という呼び名が生まれたのである。但し、この「疑いのトマス」という弟子の名前を取って命名された無数の人たちのことを思うと、単にトマスという人物を「反面教師」として語ろう、としている意図ではないだろうと思われる。
「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」という方法論は、「実証」的認識のために、現代では欠くべからざる態度であると言えるだろう。「フェイク」が交錯し、「エビデンス」が声高に、求められる時代である。何が真実で、何が偽りであるのかを、胡散臭いまま蓋をして、そのまま受け入れることはできない。トマスは、主イエスがどのような方であるかを示すしるしは、何よりもその傷であると考えるのである。十字架に付けられた時に負われた傷こそが、主イエスのエビデンスだと主張する。この傷によって、イエスがどれほどわたしたちを愛してくださったかが現されているからである。私たちもまた、主イエスを、その顔によってではなく、傷によって知るのだという信仰理解にもつながるであろう。即ち、何ら悩みも痛みもなく、この世の苦しみを超越して、遥か高みに輝きにあふれ、神々しくまします方を私たちは信じるのではない。十字架で痛み、血を流し、苦しまれる主の姿に、私たちはまことの神の姿を見るのである。
「ディディモ(双子)」というあだ名の謂れについて、いくつかの興味深い考察がある。ひとつはこの弟子が、主イエスとよく似た外見をしていたから、というのである。もしかしたら、他の弟子の前で、巧みに主の身振り手ぶりをまねて、物まねを演じて見せて、一同の喝さいを受けることがあったのだろうか。古代の文化において、すでに「演劇」は十分に発達していたから、初代教会もまた、ごく自然に「演劇」的要素を受け入れていたのではないか。つまり宣教の際に、主イエスの姿を演じる「役者」のような働きをする者、「ディディモ」もいたのではないか。
もうひとつの理解は、「双子」の片割れは、「私たち自身」である、というものである。トマスのように、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」という心なしには、つまりトマスの心なくしては、主イエスに出会うことはできない、トマスこそ、私たちの兄だというのである。「見ないで信じる者は幸い」と主は言われる。今、直に復活の主イエスを見ることはできない。しかし私たちは、見えないお身体を、その身体に記された傷を、釘の跡を確かに見て、主イエスの現在を了解し、み言葉を信じるのである。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」、かの美しい書物、テグジュペリ『星の王子さま』の中の、よく知られた一節である。見える事柄ばかりで判断しようとする現代に対する鋭い批判でもある。「心で見る」とは何か、「ことば」を深く味わうということだろう。人はすべてのことを、ことばに託して理解し、誰かに伝え、分かち合おうとする。主イエスを信じるというのもまた、「ことば」によるのである。それは、主イエスが私に何を語って下さったか、そのみ言葉を誰かと分かち合うことでもあるだろう。私たちは、共にビールに酔うのではなくて、み言葉に酔うのである。