祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書3章1~17節

「我以外皆我師」という言葉がある。自分以外の人、物、出来事すべてが自分の師、つまり自分を成長させてくれる教師となり得る、と意味である。「反面教師」という言葉もあるから、人生にそういう面は確かにあるだろうが、「尊敬できる人などいない」と高飛車になって、自分を「唯一の師」のように考えてしまえば、そこには進歩も発展も、あるいは自覚も反省もないだろう。

ところで、「善き師」、良い先生については、しばしばその話題が人の口に上るが(大抵は、悪い師についてであるが)、「よい弟子」とはどのような者を指すのだろうか。ある仏僧の語った次のような言辞があるという。「其れ法を嗣ぐ者に三有り。上士は怨みに嗣ぐ。中士は恩に嗣ぐ。下士は勢いに嗣ぐ。怨みに嗣ぐ者は道に在り。恩に嗣ぐ者は人に在り。勢いに嗣ぐ者は己に在り」、雲外雲岫(1242~1324)という曹洞宗の僧の著作『宗門嗣法論』に記されているそうである。簡単に言えば、弟子には三つのタイプあるという。ひとつは「勢いにつく人」。有名で人気の師匠につけば食いっぱぐれはない、寄らば大樹。また「恩(情け)につく人」。師匠の人柄にほれて、その人の言われた通り、疑わず精進をする。そして一番いい弟子とは、「恨みにつく人」、「恨み」とは物騒な印象を受けるが、師と弟子は仇敵同士という関係にある、という意味である。まるで仇敵のようにお互いに切磋琢磨しあい、ぶつかり合いつつ法(真理)を究めて行くという姿勢を持つ人こそが、弟子たるものにふさわしい態度である、というのだが、現在なら、「ハラスメント」の種にもなりそうな微妙な関係である。

歴史学者は、洗礼者ヨハネと主イエスのつながりを、「師と弟子」のような関係にあったと推測している。ヨルダンの向こうで、人々に洗礼を施す荒れ野の預言者の活動、いわば「悔い改め運動」に、一時期、ナザレのイエスも身を投じていたのではないか、という。マルコによれば、主イエスの宣教活動は、「ヨハネが捕らえられた後」に開始されたというが、それは「師の投獄による不在」が大きな要因となったことを、暗に示唆しているであろう(師の面前では、勝手はし難いということか)。「悔い改め運動」から「神の国運動」への転換である。マルコは、バプテスマのヨハネと主イエスのあり方の違いを、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて」(1章4節)という導入と、「イエスはガリラヤへ行き」という導入の言葉を対比させて、その違いを際立たせようとする。即ち、ヨハネは孤高の活動家として、人里を離れ、「荒れ野」を拠点として宣教を行ったのに比して、ナザレのイエスは、「ガリラヤ」という人々が生きて働く日常の場所を、自らの宣教の拠点としたのだと主張するのである。

もちろん、両者のつながりを「延長」ないし「展開」という単純な連続性から捉えるのではなく、密接な関係にあった両者の、「決定的な違い」を、どの福音書記者も強く意識しているのだが、マタイは(ルカも)マルコの伝承を基に置きつつ、当時、教会に伝わっていた主イエスの宣教活動にまつわる伝承資料(Q)を参照しながら(ルカも同じ資料を用いて再構成している)、より深く、両者の差異を明確にしようと試みるのである。単に「師と弟子」の関係に還元できない「恨」(別にヨハネに恨みがあったという訳ではないのだが)を、浮かび上がらせようとするのである。

7節「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。神の大いなる怒りが、すぐ目の前にある、洗礼者は自らのもとに集まってきた人々に、こう宣告したという。そして10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。神の怒りの斧は、すぐ足下に置かれている、時は迫り、もはや猶予はない。さらに「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」というのである。激しく、厳しく、躊躇できない切迫さをもって、神はすべての人々の前に立っておられる。こういう強い悔い改めへの呼びかけを聞いて、私たちは何を思うか。

この一連の洗礼者の言葉は、ルカ福音書の平行個所と比較すると、ほぼ同一の文章であるから、元々の伝承資料に記されていた文言ではあろう、もしかしたら洗礼者の実際の言辞に遡る可能性もある。但し、細部を比べると、いくらかの違いが認められる。「悔い改めにふさわしい実を結べ」、悔い改めは「心の方向転換」である。それは心の中で生起するが、内に秘められたままではない、人間の心の有りようは、表情、言葉、振る舞い、さらにはすべてをひっくるめた働きとなって、必ず外に現れ出て来るからである。即ち「実を結ぶ」のである。ルカはこの「実」について複数形を用いて表現している。個々人には各々その表し方には多様性があるだろう、という寛容な感覚が見られる。ところがマタイは「単数形」で表現する。「悔い改めの実」は、ひとつだけなのだ、という。ここには猶予とか揺らぎとか、ゆるさの入り込む余地はない。しかし「ただ一つの悔い改めの実」とは何を指すのであろう。この一事だけを見ても、洗礼者のゆるぎない徹底した正義への姿勢を見ることができるだろう。

これらの洗礼者ヨハネの言葉をまともに聞いて、私たちはどのように応答することができるのだろうか。「神の怒り」、容赦ない火のような「神の怒り」として、そして徹底した揺るぎのない「神の裁き」、さらに「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という赦されることのない断罪。これらの言葉によって、私たちは本当に、悔い改めにふさわしく、翻って生きることはできるのか。「甘やかしたらつけあがる」というのは、悲しくも人間の一側面かもしれないが、厳罰への脅しと鞭が、ほんとうに人を正しい道に導く力となるのか。

そもそも神は、なぜ怒るのか、人間の極悪の罪に対してと言われる。神は「裁く」ものなのか、報復という名の空爆によって、食料や水を受け取りに来ていた子どもたちが、無残に殺傷されるガザの悲惨に、人はどうすることもできずに、手をこまねいているままである。だから人に代わってその非道を神が裁く、というのか。いや、神が裁かないのなら、人が裁くというのか。

このヨハネの言葉を聞いたナザレの人、イエスは、洗礼者の手からパプテスマを受けられたという。「正しいことをするのは、我々にふさわしい」。「正しさ」とは、「裁き」とは、聖書本来の意味では、「神の慈しみ、恵み」の言い換えである。「義の実を結ぶ」ことは、それらを養分にして養われ、みずからも「慈しみ、恵み」の器として生きることに他ならないであろう。主イエスは、洗礼者の面前で、義の実を結ぶ歩みとは何かを、自らの姿勢で示された。「正しさ」とは、神の義、即ち「慈しみ」にこそ生かされることである。