こういう文章がある「ひとはつい見えを張る生きもの。かつて米国の『リーバイス』が店でジーンズを買った女性客に感想をたずねた。すると10人中7人がサイズに不満と答えた。店員から胴回りを聞かれると、小さめに申告してしまい、はくのがキツイと。そこで客が自分でサイズを入力するネット端末を導入。そのデータでジーンズを縫製し、自宅に直接届けるのである。対面で店員に『真実』を告げる恥ずかしさがなくなったせいか、売り上げは4倍に伸びたとか」(2月17日付「有明抄」)。人はとかく人の目を気にするもの、事情はアメリカでも同じ、対面での販売からネット端末での注文への変更が、顧客の満足度を高めたという。いまどこもかしこも、対面からネット端末の時代である。
エレミヤ書には、この預言書の一番の特徴として、「告白録」と呼ばれる断片があちらこちらに散見されることである。長短含めて、大体次の5つの個所に見いだせる。11章18~12章6節(アナトラの人々の陰謀、神との論争)、15章10~21節(エレミヤの苦しみと神の支え、誕生の呪いと第2の召命)、17章14~18節(エレミヤの嘆き、いやしを求める)、18章18~23節(エレミヤに対する計略、敵への呪い)、20章 7~18節(告白、内的葛藤と究極的絶望)。イザヤ書(第二イザヤ)中の「僕の歌」が、ひとまとまりで構成されずに、断片的に散見されるように、エレミヤ告白もまた、断片としてあちらこちらに散らばって置かれている。これはエレミヤ書を今日の形に再構成した編集者の意図によるものと思われるが、それがいかなるものか、直には明らかではない。
今日取り上げる個所は、15章10~21節であるが、基本的には預言者個人が、神と深く対話し、嘆き訴えるという形式で語られている。つらく悲痛な言葉が記されている。10節「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」。反抗期の子どもが、「産んでくれと頼んだ覚えはない」という捨て台詞のようにも聞こえるが、意訳すれば「生まれてこない方が良かった」というような意味である。「自分自身で自己の出生を呪う」、これはエレミヤ書には20章でさらに言葉を添えて繰り返されるし、ヨブ記でもすべてを奪われた主人公が、エレミヤと同じような言葉を口にしているのである。そして新約では、自分を裏切るイスカリオテのユダについて、主イエスが’(婉曲的な言い方で)「その人は生まれてこない方が良かった」と発言されている。「生まれて来なければよかった」という発言は、善いとか悪いとか評価や批判をする以前に、最も人間として悲しい言葉であるだろう。自らも、周りの人、特に親しい人にとっても、多大な悲しみを与える呪いの言葉であろう。心から思っても、口にしてはならぬ言葉があるとするなら、これである。(だから何ができた、何を手に入れた、ということよりも、人生の途上で「生まれてきて良かった」と思えるなら、これにまさる喜び、生きる意味は他にないだろう)。
そして17節「わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました」。これも預言者の寂しく悲しくつらい心情を、余すところなく語る告白である。現代人の目から見たら「ぼっち」とからかわれ、あるいは「コミュ力の欠如」と揶揄される姿であろう。「集合人格観念」ですべての人間関係を考える古代にあって、預言者のこうした徹底した孤独、孤立したあり方は、異様な印象をも与えるであろう。
こうした預言者の孤独や孤立性について、真の預言者は多かれ少なかれ皆こうした側面を持っていたことは事実である。「もし人が風に歩み、偽りを言い、『わたしはぶどう酒と濃き酒とについて、あなたに説教しよう』と言うならば、その人は民の説教者となるであろう」(ミカ書2章11節)。これも孤高の預言者のひとりの言葉である。但し、エレミヤの場合、神と一対一の、面と向かっての孤独で壮絶なやり取りの中で、神の言葉を与えられ、人々に告げたこと、即ち、預言の言葉の源泉がどこにあったかについては、つねに心を向けるべきであろう。
今日の個所でひとつ特徴的なのは、預言者の告白の言葉ではあるが、それが預言者個人ばかりでなく複合的な意味合いを持って語られていることである。12節以下の託宣は、「お前」という個人に対して語られたみ言葉という形式を取ってはいるが、その内容は、やがて訪れる祖国の崩壊、さらに「バビロン捕囚」の預言なのである。つまりここにも「集合人格」の観念が反映しており、預言者個人を越えて、ユダの民全体への告知が、「あなた」という一人の人間を通して語られているのである。すると、最初の「出生の呪い」の言葉もまた、単に「生まれてこない方が良かった」というエレミヤの心を越えて、いつか民全体のものとなることが意識されているだろう。つまり神の民であるユダは、もはや「神の呼び集められた民」という何にも代えがたいアイデンティティ、即ち、生きる意味を失っていることの表明なのだろう。
預言者として人々から排斥され、孤立し孤独をかこつ体験は、エレミヤだけのものではなくていつか、「捕囚」という出来事によって民全体が自らのこととして味わうことになるだろう。その時に預言者はこう訴え祈った、18節「なぜ、わたしの痛みはやむことなく/
わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました」。この涙の訴えに対して、実に神は答えられるのである。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう」。召命が揺らぐときに、神は再度、新たに彼に呼びかけ、再びみもとに召すのである。そしてこの深い個人的な信仰体験は、これもまたいつかユダの民全体の体験となるだろう、というのである。
冒頭の文章はこう続く、「コロナ禍をきっかけに、対面でのやりとりはさらに減った。飲食店の注文、スーパーのレジ…。スマホがあれば、家にいながら買い物はおろか、お金のやりとりも簡単にできる。便利さは危うさと裏表である。特殊詐欺とSNSを使った投資・ロマンス詐欺の被害額は昨年、全国で3241億円と過去最悪だった。機械や液晶画面ばかりをながめ、疑問や不審に思ってまわりを見渡しても、誰に聞けばいいのかわからない。そんな、ひとと向き合うことがどんどん下手になっていく社会。犯罪組織はそれをせせら笑っているようでもある」。人と人との絆が絶たれることを、一番せせら笑っているのは、本当は「悪魔」なのかもしれない。しかし目には見えない方との、対面でのやり取りは、心と魂の内で繰り返される。「彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる」。この神の目から離れることはエレミヤばかりか、私たちひとり一人できないのである。