祈祷会・聖書の学び ヨブ記39章1~30節

先日、次のようなニュースが伝えられた「現生のネコ科動物として100年以上ぶりとなる新種が、南米ボリビアの雲霧林(霧や低い雲に覆われることの多い山地林)で見つかった。論文は9月17日(現地時間)、米科学誌『Current Biology』に掲載された。新種は『ティルカヨ』と名付けられた。生息地は、ボリビアのアンデス山脈東斜面に広がる雲霧林『ユンガス」だ。体は一般的なイエネコより小さい。それ自体がまったく新しい種として見つかった。こうした例は極めてまれだ」。科学技術が進歩し、グローバル時代の現代でも、未知の種、しかも哺乳類が発見されるのは驚きである。万有引力の法則など、古典力学や近代物理学の祖である科学者のアイザック・ニュートン(1642~1727)は、「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっている。だが、私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない」と語り、人間には捉えきれない世界の広さや大きさを告白している。確かに科学的真理の発見というものは、ひとつの無知をもう一段階上の無知に引き上げる行為でしかない、というものかもしれない。しかし人間は、そういう真理の探究を止めないだろうし、踏みとどまり、諦めることはないであろう。

ヨブ記の「議論」の結末部分が、38章から始まる一連の「主なる神の言葉」と題される下りである。普通、読者は、書物の最後の結末には、何らかの「解決」が与えられている、と考えるものだ。確かに、ヨブの幸福は、42章の後半、散文で記される説話で、最後には再び取り戻されているように見える。失った財産や家族、子どもたちは再び与えられる。しかし肝心のヨブが友人たちと激しく議論した「神義論」には、答えは出されないのである。「どうして人は苦しむのか、不条理の苦難があるのか、義なる神がいるならば、なぜこの世界に苦しみがあるのか」という問題について、何ら結論めいたことは語られずに、物語は結末を迎えるのである。

今日の個所でも、ヨブに対する神の言葉は、有無を言わせず力ずくで押さえつけ、黙らせるような、高飛車な調子を持っている。「(人に過ぎないお前に)できるか」という言辞が繰り返され、ヨブは逃げ場のない所に追い詰められる。まるでドラマの「水戸黄門」の印籠のようである。「この紋所が目にはいらぬか!」。すべてお見通しだ、こう言われては身もふたもない。

39章では、前章の39節からの事柄を引き継いで、自然界の野生動物の生態についての問いが、展開されている。古代人の自然観察眼の鋭さと共に、認識の限界が記されている。やはり、自然科学が未発達ゆえの、いわゆる「非科学的な」知識が開陳されているといえるだろう。それでも古代にあっては緻密な視点であることは否めないが。

「山羊」、「雌鹿」、「ろば」、「野牛」、「駝鳥」、「馬」、「鷹、鷲」等の生態が、知恵の話題として論われている。それらの生き物は、聖書の人々が通常、最もよく目にする動物であっただろう。旧約の「知恵」は、人間生活の日常の営みから導き出される「生活の知恵」を始めとして、冶金や鉱山に関する工業技術、つまり古代の先端テクノロジーに至るまで、ありとあらゆる事柄に対する認識や知識、理解を含むものであったことが知れる。そうした中で、私たちが生きている世界内に置かれている、神の被造物についての知識が特に重要視されていたことが、この章の文面から伝わって来る。

これら生き物の中で、「駝鳥」にまつわる観察が、特に注目される。17節「神が知恵を貸し与えず/分別を分け与えなかったからだ」。知者は駝鳥について「知恵のない、愚かな被造物」という評価を与えている。なぜなら「卵を地面に置き去りにし/砂の上で暖まるにまかせ/獣の足がこれを踏みつけ/野の獣が踏みにじることも忘れている。その雛を/自分のものではないかのようにあしらい/自分の産んだものが無に帰しても/平然としている」からだという。こうした見方はヨブ記だけの見解ではなく。哀歌 4章34節でも同じように記されている。「山犬ですら乳を与えて子を養うというのに わが民の娘は残酷になり 荒れ野の駝鳥のようにふるまう。 乳飲み子の舌は渇いて上顎に付き 幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない」。戦争による荒廃で、食物が枯渇し飢饉が生じた時の有様が語られているが、「駝鳥」は子を顧みない、情けない生き物であることが、ここでも告げられている。どうも聖書の人々にとって、この生き物の旗色は芳しくない。

実際、今日の生物学的観察で明らかにされている、駝鳥の習性とはどのようであるか。複数の雌が同じ巣に卵を産む「共同営巣」を行い、暑さから逃れるために、昼は雌、夜は敵に襲われる危険を軽減するために、動かなくていいように、雄が交代で卵を温めて子育てをするのである。つまり出産、子育てに際して、産院や保育園のような形態をとることが知られている。決して愚かな被造物ではない。そのような習性を育んだ背景には、「彼らはライオンやヒョウ、ハイエナ、リカオン、チーターなどと同じ土地に暮らす 『特大のニワトリ』、すなわち飛べない鳥だからだ。ダチョウの成鳥は敵を蹴って骨折させたり、足の爪で敵の内臓をえぐり出したりすることもでき、簡単に餌食になることはない。ただ、戦うより逃げることに長けていて、逃げる速さは最高で時速70キロ近くになる」(ナショナル ジオグラフィック 2020年9月号)という。

2011年「東日本大震災」の後に、このような記事が伝えられた。「東京電力福島第1原発事故で住民が避難し、無人となった福島県大熊町をさまようダチョウがいた。農場で飼われていたが、餌を求めて脱走した。(無人の町を、駝鳥が駆け回る)異様な風景を多くのメディアが取り上げた。飼い主は、大熊町と接する双葉町の元町議。東電が平成12年前後、少しの餌で体重100キロ超に成長するダチョウを『少量のウランで発電できる原発』と重ね合わせて飼い始めたことをまねた」(2021年2月8日付産経新聞)。

原発の隠喩のように飼育された駝鳥が、その重大事故によって人の住めなくなって土地を闊歩する姿は、神の創造のみわざのアイロニーなのだろうか。人の知恵は、想定外のところでもろくも破綻するが、神の知恵によって創造された被造物は、人間という被造物の破滅を越えて、生命をこの地上に記し続けるというのか。この有様は、人間の知恵の行き着く所、「核兵器」の開発が、結局何をもたらすかを暗示しているようにも見える。ヨブばかりではない、人類は自らの知恵を誇るが、その知恵もまた、人と共に滅び去る運命にある。「知恵のはじめは、神をおそれること」、自然の災厄を通して、しばしば「正しくおそれる」ことが告げられる。本当に恐ろしいのは「怖いものがない」というおごりであろう。私たちは、自分を超えるものに、へりくだる知恵を失っていないか。