『フーテンの寅さん』映画の中に、寅さんと甥の満男の間で交わされる、こんな台詞のやり取りがある。満男「人間は何のために生きてんのかな?」、寅「何だお前、難しいこと聞くなあ、ええ?」、寅、しばし考える、「うーん、何て言うかな。ほら、ああ、生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるじゃない、ね。そのために人間生きてんじゃねえのか」(滝口悠生『いま、幸せかい?「寅さん」からの言葉』)。
コヘレトの言葉は、ヘブライ語聖書では、諸書の一冊であり、雅歌と共に紀元1世紀に正典に入れられた書物である。ラビたちの会議(ヤムニヤ会議)で、この書が盛んに議論された。一筋縄ではいかない書物である。彼らは穏健派、保守派であったから、立場上、諸手を挙げて賛同することはできない。しかし切り捨てて放り出すのは魅力的すぎる。そこで、ソロモンの著であり、最後に「これ以外にも心を用いよ」という言葉ゆえに、正典の一書となったという経緯がある。そういういわくつきの書物を数回味わいたい。
ヨブ記もコヘレトも、知恵文学のひとつであるし、同じ課題に立ち向かった思考をしている。それは「因果応報」と呼ばれる正統的だが、硬直した観念をどう乗り越えることが出来るか、という課題である。それに、ヨブ記は直球で、コヘレトは変化球で挑んだ、ということになろうか。戦い方にはいろいろ方策がある。
「マーフィーの法則」なるものを知っているか。「バタつきのトーストを、床に落とすときには必ず、バタを塗った方が下に落ちる」とか「定時にバス停に来た時には必ずバスが来るのが遅れるが、ちょっと遅刻した時に限って、バスは定刻にやって来る」。「急いでいる時に限って、自分の並んでいる列が遅い」。誰が口にした言葉かは不明だが、人生を後ろ向きに見させるマイナス思考の狸言である。しかしそのマイナスが、動脈硬化を起こした思考を揺さぶるには、効果的な力となる。丁度、コヘレトはそんな思想家かもしれない。
ヘブライ語で書かれた旧約聖書をギリシア語に翻訳した七十人訳聖書では、28回繰り返される14対の「時」という用語はすべて、「カイロス」というギリシア語に訳出されている。ギリシア語において、時を表すのに、「クロノス」という言葉と「カイロス」という言葉、二種類の時を現わす単語があることはよく知られているが、しばしば、時計で計ることのできる量的な時を表すのが「クロノス」、それに対して、時計で計ることのできない質的な時、決定的な時を表すのが「カイロス」であると説明される。「休みの日に、ぼう~としている間に、一日が過ぎた」という場合には、「カイロス」の中に生きたということであり、「生まれてきて良かったなあ~」と思えるような一瞬を過ごせたなら、それは「カイロス」の内に生きたということになるだろう。それは量的には確かに一瞬だが、他の何者ともに比べられない価値、つまり永遠とつながっている今、とも説明できるであろう。聖書的に言えば、神が人間の歴史に手を伸ばされた、そういう決定的な「時」を表している。
1節「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。ここで「時」とは、何となく過ぎてゆく、あるいはほんの「偶然」とか呼ぶような、ただ過ぎ去って行く不確かな時ではなくて、「定められた時」であるという。「定められた」というからには、時を采配し、定める方がおられるということであり、そのような働きをされる方こそ「神」なのである。
コヘレトの語る、一つひとつの「時」(カイロス)は、「生と死」「植苗と収穫」「破壊と構築」「喜怒哀楽」「獲得と喪失」「戦争と平和」「愛憎」等、人生の内に体験される、特別の「時」ばかりでなく、日常茶飯の中に生起する、ありきたりの「時」もまた「カイロス」なのだと主張していることが、注目される。そして特に、人間にとって、ポジティブな機会「良い時」ばかりではなく、ネガティブな突発事態の思える「悪い時」もまた、「カイロス」として捉えられていることが重要であろう。私たちにとって、偶然と思えるような「時」も、あるいは、重苦しい宿命のように思える「時」も、実は、最もふさわしい「時」として、その時を定めておられる方がおられるというのである。
もちろん、「定められた時がある」と言っても、いつ何が起こるか、ということが、初めからすべて決められているという、怪しげな運命論を主張しているのではではないだろう。そうだとしたら私たちは、ただプログラムされた指令の道筋の上を走る機械かロボットに過ぎないことになる。確かにすべての生命体は「利己的遺伝子」によって突き動かされている、という穿った見方もできるのではあるが。
確かに「人は自分の見たいことしか見ようとしない」(カエサル)のであり、自分の目に見える事柄に振り回されて「一喜一憂」しながら生きている側面がある。だから都合の「悪い」と思う事態に直面すると、すぐにその原因を求めて理由づけし、それで何となく納得した気分になる。それが極まり行きつくところが「因果応報」論である。それは人生のあらゆる物事を「自己責任」に収斂させようとする、ご都合主義の理屈とも言い換えられるだろう。コヘレトはこれに反駁したく、「すべてに時がある」と覚醒した修行者のように、したり顔で語るのである。「全ての時は、その一つひとつにふさわしく定められている」、と。自分の責任なんかじゃない。これは解放の論理であると同時に責任の放棄であり、冷笑主義的なあきらめでもある。コヘレトの言葉の魅力は、こうした複合的な視野の内に語られていることが上げられよう。
この一連の「時」を巡る説教の結論のように、彼は断定する。「人ががんばってみたところで何になろう。わたしは、神が人に与えた苦役(苦労)をいやという程見て来た。確かにあの神は、すべてをその時にふさわしく計画し配置されたのであろう。そして人間は長い時の流れを通して物事を考える能力も与えられている。しかし残念なことに、それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることはできない、人は有限なのだから」。コヘレトは随分、後ろ向きの人生観を主張しているように見えるが、それもまたこの思想家の魅力の一つかもしれないし、そうした姿勢を彼特有のポーズとして受け止めるのもまた一興だろう。ただもう少し楽天的(楽観的にではない!)に、笑顔で語れると良いとは思うが。冒頭に紹介した場面に続き、寅さんはこう語って、甥と別れて、風の吹くまま新たな旅に出てゆく、「そのうちお前にもそういう時が来るよ、うん。まあ、がんばれ、なっ」。そう、私たちもまた、「風立ちぬ、いざ生きめやも」。
