「かなぐり捨てて」ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

秋晴れの天気の良い日が続く。気持ちのいい季節、野外で時を過ごすことも多い。「スポーツの秋」で、ここそこでマラソン大会が開催されるのも、この時期である。お隣の町、調布市飛田給、甲州街道沿いには、今も「オリンピックマラソン折返点記念碑」が置かれている。この大会の金メダリスト、エチオピアのアジス・アベベ選手の表情は、「哲学者の顔」と評された。マラソン程の長距離競技になると、選手があちらに行きっぱなしでは、運営上支障が出る(皆が追いかけて行くのは大変)ので、戻って来てもらう方がありがたい、という訳で「折り返し点」が設けられることになる。これもまたマラソンが、人生に喩えられる理由のひとつであろうか。

言語学者の郡司利男氏によって、60年前に独自の解釈で編まれた『国語笑字典』と題された書物がある。1880年に公刊されたアンブローズ・ビアス箸『悪魔の辞典』に触発された著作であろう。この国では高度成長期真っ唯中の、活力ある時代である。こんな記述を目にする。『人生』とは、嫌がる年齢(から)嫌がらぬ年齢(へ)、(さらに)嫌がられぬ年齢(となり)、(そうするうちに)嫌がらせの年齢(となって)、(ついに)嫌がられの年齢(と相成る)。いささか辛辣、人生に対して辛口すぎる見方だろうか。嫌だイヤだの反抗期を経て、人は大人として成長し、家族や社会などのために汗を流すようになる。素直で前途洋々の人間を嫌がる人は、そういないだろう。そうして年月を重ねて行く内、いつの間にか、俺が世の中を動かしていると勘違いするものだから、皆から疎んじられて嫌われるようになる。もうすでにこの時代に、このような、現在と変わらないような人生観、人間観が語られていることを、どう思われるか。人生もまた、さまざまな折り返し地点を経て、紆余曲折しながら走って行くものなのだろう。つまりいつまでも同じままではいられないということである。

今日の聖書個所はヘブライ人への手紙である。この手紙というよりは「論文」には、「宛先」は記されておらず、執筆者も書かれていない。「ヘブライ人」という名称も、一度も出てこない。しかし昔から高い評価を与えられている文書である。教父オリゲネスは、新約聖書中もっとも文学的な書であるという。その理由は、ギリシア語の文言の流麗さにあり、アレクサンドリアのクレメンスも絶賛していた、とエウセビオスが記している。オリゲネスは(当時使徒パウロの手紙とされていた)『ヘブライ人への手紙』は、他のパウロ書簡とはギリシア語の見事さにおいて際立った違いがあると分析している。著者は不詳であるが、おそらくパウロ書簡がそれとしてまとめられた後、紀元2世紀に入るか入らないか頃に執筆されたと考えられている。確かにギリシャ語を母国語として用いている人の手になるものである。

ではなぜ「ヘブライ人なのか」と言えば、今日の個所を見ると、そう名付けたくなる理由がすぐに分かる。とにかくめっぽう旧約聖書に詳しいのである。旧約の祭儀、宗教理念、制度、そして今回は旧約の著名人が続々と登場してくる。11章は創世記のカインとアベルから始まって、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセら、旧約の名だたる人々の生涯が回顧される。さらにギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと続き、短くその人生にまつわる逸話が披露されている。皆さんは、これらの旧約有名人の生涯や事績をご存じだろうか。昔、教会学校に出席していた人ならば、おぼろげに彼らの生涯なり、事績なりは、知っているだろう。彼らの生涯は、格好の「紙芝居」の題材となっていたからである。

旧約の有名人、著名人が網羅されているものの、この書のルーツがヘブライ(ユダヤ)ではなく、ヘレニズムである証拠は、至る所に散見される。今日の個所にもそれがよく分かる文言が記されている。12章1節「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。ここで「競争」という用語が目に付く。これは明らかに、ギリシア・アテネで開催される「古代オリンピック」が意識されていると言っていいだろう。さらに「おびただしい証人の群れ」という表現は、さながらスタディアムで選手たちの競争を見物し、そこで競技する走者のがんばりを大声を上げて応援する人々、そして、その勝負の行方を見届けて、それを協議の後までも話題にする観客のことを意識しているのである。競技場の熱気、人々の歓声が聞こえてくるようだ。そのように、「古の信仰者、今はこの世を去って神のみ下にいるキリスト者たちが、あなたの人生に、信仰の歩みに声援を送っているのだ。がんばれ!」と著者は励ましているようにも思える。

さらに「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」、古代オリンピックの様子を描いた絵やレリーフ等を見ると、オリンピックの競技者たちが素っ裸で競技している姿を見ることができる。実際、当時の人々が来ている裾の長い衣服では、運動するには甚だ不都合であり、裾が足に絡まってとても競技をするどころではないという具体的な理由があるだろうが、そもそも「運動」とは、人間の肉体美を開示することでもあったのである。生きた身体をもって神を賛美し、その生命の恵みに感謝をする、という宗教的行為が、スポーツなのである。だからどうしても偶像崇拝的な誘惑の強いスポーツは、イスラエル・ユダヤでは積極的に称賛されなかったのである。旧約には残念ながら、ほとんどスポーツらしい記述は出てこない。若者が互いの力を競って岩を持ち上げたり、走ってその速さを比べ合うのを、余興的に楽しむことはあったようだが。

口語訳、そして新共同訳でも踏襲された訳語、「罪をかなぐり捨てて」という翻訳は、名訳だと感じる。「罪」というものは、こちらがいくら嫌っても、避けようとしても、向こうからまとわりついて来るようなところがある。丁度、着物の裾が足に絡みついてすたすた歩くのを妨げ、挙句の果てにはそれで足を取られてもんどり打つような趣である。この厄介な着物のすそのような、邪魔な「罪」を、「かなぐり捨てて」、「はぎ取り、丸めて打っちゃっり」たい気持ちは、痛いほどわかる。原文はそんなに勢いのある、威勢のいい用語ではない。「捨てる、傍らに置く」くらいの軽い意味合いである。協会共同訳は、「捨てる」と原意に忠実に訳している。従来の訳は、後の「血を流して罪と格闘したことが無い」という文言に引きずられているからである。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こう」というみ言葉は、すぐそれに続く章句から理解すべきだろう。2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。見るべきものは主イエス、その歩みなのである。私たちは、生きる時に、自分の担っている重荷、苦労、悩みにどうしても目が行く。其れにあえいで、どんな罪の報いで、こんなに苦労しなければならないのか、と問うのである。あれが悪いこれが悪い、自分の思いが裏切られた、誰もわかってくれない。「罪」が絡んでくるとはそういうことだ。そこにしか集中できなくなる。だから、そこでそんなことはひとまず止めにして、何はともあれ、主イエスの歩みをしっかりと見るのである。何が見えるか、「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」。ここにも同じ用語「捨てる、脇に置く」が用いられている。主イエスも、すべて余計なものを捨てて、自らの喜びすらも脇において、捨てて、着衣も纏わず、裸の人、ただの人として十字架に架かられ、死なれたのである。もし「かなぐり捨てて」というのがあるなら、十字架の主、裸の主イエスの姿、ここにしかないであろう。

「最後の最後まで問題であり続けたのは人間でした。『裸の』人間でした。この数年間にすべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何ものも確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました。

虚栄も、野心も、縁故もです。すべてが、裸の実存に還元されました。苦痛に焼き尽くされて、本質でないものはすべて溶け去りました。人間は溶けだされて一つになり、その正体を現しました」(エミール・フランクル『夜と霧』)。

強制収容所において、人間はどうなるか、「すべてをはぎ取られて、裸の人間にされる」という。そして「すべては疑わしいものとなりました」、生きる中に人間が手に入れたり築き上げたり、身に着けて来たものは、すべて価値のない、空しいものとなった、という。そして「裸のわたし」だけが問題となった。つまり、神の前での人間とは何か、をフランクルは語っているのである。『人生』とは、嫌がる年齢(から)嫌がらぬ年齢(へ)、(さらに)嫌がられぬ年齢(となり)、(そうするうちに)嫌がらせの年齢(となって)、(ついに)嫌がられの年齢(と相成る)。人間は「好きだ」「嫌いだ」、何がいい,かにがいいと勝手に理屈をつけて、わがまま勝手に評価をし、すべてを決めつけるのである。しかし神が見るのは「罪」ではない、その人の裸の姿、すべてかなぐり捨てられて、罪でさえもはぎ取られて、私たちは生身で、神の前に立つのである。主イエスが、ローマの兵隊に衣をはぎ取られて、十字架に釘打たれて、動くこともできず、「わが神、わが神」と叫びをあげて、亡くなられた。この裸のみ子を、神はしっかりと見ておられるのである。そしてその痛ましい姿の裏側に、神は共におられる、復活の生命をもっておられるのである。