こういう問いがある。「海賊船の中で一生懸命、仕事をしている船員がいたとする。この船員は善人か、それとも悪人か?」。これはアメリカの神学者、ラインホルト・ニーバーが『道徳的人間と非道徳的社会』(1923年)の中で社会に突き付けた「問い」である。「海賊船」の中では、皆、勤勉に働き、取得物は平等に分配され、仲間内での裏切りや虚偽はなく、船長も乗組員の支持によって立てられ、責任を全うしている、としたらどうなのか。但し、彼らが乗り組んでいる「船」は、外の世界に対して略奪や殺戮を繰り返す、紛れもない「悪」を行っているのである。
これは現代の「構造悪」の議論の先駆けとも言える「問い」である。地球温暖化によって、高山の氷河が溶け、凄まじい土石流となって谷を駆け下り、麓の村を押し流し、無辜の人々の生命が奪われるという不条理の災厄が報道された。地球温暖化には、さまざまな要因が絡まり合っているが、その中で、人類の文明が排出する多大な「温室効果ガス」が密接なつながりがあることは否めないだろう。そしてこれは人間が日常生活で使用するエネルギーと深く関わっているのである。現在のこの国の人々は、日々、一人あたり江戸時代の人の百倍のエネルギーを消費して生活しているという試算もある。すると、自然のもたらす甚大な災厄には、私たち自身の消費する熱エネルギーの影響が皆無とは言い切れないだろう。ニーバーに言わせれば、私たちは「海賊船」の乗組員に他ならないのである。わたしたちは「悪人か、それとも善人か」。
「悪」の問題は、極めて難解である。よく「善」と「悪」という風に対比されるが、それらは簡単に明確な定義や線引きができない所がある。「地獄への道は、善意によって舗装されている」というブラックな喩えがあるが、「悪」は曖昧模糊として、実に捉えどころがない現象である。だから聖書は、それを人格化、即ち「悪魔」として物語のキャストとして登場させ、何とか理解し捉えようとするのである。曖昧で容易に明快にできない事柄は、「物語」によって受け止めるしかないことを、古代人はよく知っており、「昔話」や「説話」という文学形態に、実に見事に結実しているとも言えるだろう。そういう意味で、おとぎ話に「悪」が登場するのは、必然である。
さて、「ヨブ記」を取り上げる。現在のヨブ記は、最初に説話のような物語1~2章、(散文)が置かれ、中央には長い議論、即ち、ヨブと友人たちの果てしない議論が繰り広げられ、その後に唐突に神の託宣が告げられ、再び物語(42章)が繰り返され、結末を迎える、という文学構成になっている。つまり前後の散文部分こそが、古くからオリエント世界で語られていた「義人ヨブの伝説」の原型だと見なされるであろう。後世の知者が、この古い民話を「枠組」として利用し、独自の神学的、哲学的な対話(詩の部分)を挿入して現在の形に完成させたと推定されるのである。
1~2章の「義人ヨブ」の古い説話と見なされる物語には、「悪」に対しての素朴だが、鋭い洞察が行われていることが注目されよう。「悪」は人格化されて「悪魔」という形態をとって悪を行うが、後世の「悪魔」観とは随分イメージが相違している。まず「サタン」は神の御使いのひとりであり、堕落した天使などではないことが伺われる。だからちゃんと神のお目見えにかなうのである。その役割は何か、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」という具合に、世界のあらゆるところを行き巡り、秘匿情報を探索して、神(主人)に密告をする「諜報員」の如きである。だから彼は神に対して反逆どころか、忠実にその責務を果たし、さらに神の許認可を得なければ、一切の手出し、何ひとつ行動できないのである。但し、「諜報」の武器である「言葉」を弄することによって、主人を唆し、己の(歪んだ)都合や目論見をも果たそうとするのである。先の章では、主人公ヨブは、彼の財産(祝福の具体化)、そして子どもたち(これも財産の範疇に見なされる)を突然、不条理にも奪われるという過酷な体験を味わう。(サタンはどうも「まっすぐ」が嫌いなようである)。「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとした」と神もまたサタンの腹の裡など先刻ご承知なのであるが、それでもサタンの言葉の巧みさに、載せられるのである。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」。「皮には皮を」、とは、暴力を振るわれ、自分の身体に危害を加えられたら、必ずや人は報復を行う、というのである。「暴力の無限連鎖」、人類はこれに有効な策を未だに見出せないでうろうろしている。こうしたストーリー展開も、物語の常套手段であろう。どうして神はサタンに不正を許すのか、と問う向きもあろうが、文学とはそういうプロットを必要とし、それなしには、物語自体が成立しないからである。
ここで「サタン」は悪の人格化として、見事にその役割を演じているが、こうしたサタンの言辞やふるまいの描き方には、「悪」に対する深く鋭い洞察が見られるのではないか。サタンは素より神に反逆する権能は持たず、その許認可の下でしか振舞いえない「御使いのひとり」なのだが、絶対の服従の態度を取りながら、巧みに言葉を駆使して、己の都合に神さえも引き寄せようとする魂胆を隠し持っているのである。即ち、「悪」は直接に誰かに悪を加える、暴力や虚偽を行うというのではなく、狙った対象自らが破滅へと突き進むような仕掛けを講じるのである。すると「悪」は極めて知的で洞察に満ちた感覚を有しているということにもなる。「悪知恵」という言い方があるが、「サタン」は一種の「知者」なのであり、知恵の暗黒的な側面を語るものでもあろう。だから一筋縄ではいかない。
不条理の苦しみを耐え忍ぶ夫を見て、ヨブの妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と厳しく迫る。どうせ死ぬのなら、言いたいことを言えばいいのではないか。しかし「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」とヨブは彼女をたしなめたという。これは本当に模範とすべき態度なのか。主人公の信仰的敬虔さを称賛する向きが多いかもしれないが、不条理な苦難を味わう者が、その不可解な理由について訴える相手は、全ての創り主である神以外にはないのだから、その根源に向かって言葉を発することは、却って信仰的な姿勢とは言えないのだろうか。現在のヨブ記を記した知者は、敬虔な義人ヨブの説話から歩み出して、「神義論」をテーマに、滔々たる知恵の議論を始めるのである。苦しむヨブの代弁者として。
