今年、阪神・淡路大震災から30年の時を経た。かつて学生時代、被災し倒壊したその町で暮らし、毎日、往来した懐かしい場所であった。今まで、ここには大きな災害は来ないと信じられていた都市(まち)で起こったゆえに、計ることのできない自然災害の猛威を、改めて私たちの心に刻印した大きな出来事であり、これを起点にこの国の人々に大きな問い投げかけた故に、新聞、テレビ等のマスコミは、30年経った今も、特別番組、特集記事を編んで公に報じた。
ある地方紙がこう報じた「その病院のそばには、オリーブが植えられていた。30年前のきょう起きた阪神大震災は、建物の倒壊だけでなく火災も相次ぎ、多くの命が奪われた。付近でも18人が亡くなったという。当時、入院していた患者47人は全員無事に救助された。オリーブの木が半身を火にあぶられながら延焼を防いだのだった。おかげで被害を免れた民家もある。現地で心のケアに当たった精神科医、中井久夫さんは記念にその枝を持ち帰ることにした。途中、顔色の悪い年配の女性がいた。全財産を失ったと嘆いた。中井さんはひと枝差し出して言った。『何もしてあげられないけれど、このオリーブの木だって生き残ったのですよ』と」(1月17日付有明抄「オリーブの木」)
「オリーブの木が半身を火にあぶられながら延焼を防いだ」、自然の容赦ない猛威の中で、これも自然のなせるわざのひとつであろうが、ささやかだが、それでいて生命を分けるような大きな自然の働きがあったことに、不思議な思いが生じ、心が震える。
今日は、マタイ福音書の4章12節以下に目を向ける。前回の説教ではこのパラグラフに続く、「弟子の召命」、「大勢の病人に対する癒し」の記事を共に読んだ。話す順序が逆ではないか、と思われるかもしれない。今日の個所は「主イエスの宣教の開始」を告げる内容である。他の福音書は、「悔い改めよ、神の国は近づいた」という主イエスの宣言を中心に、非常に短くまとめている。ところがマタイだけは、旧約の預言書の言葉の引用を行い、少々長めのプロローグを記すのであるが、どうしてなのか。
主イエスの公生涯とは、自分から出て行って、弟子を招き、町々を巡り、大勢の病人を癒された、といういささか常識外れの活動であり、そしてその歩みは、ついに不条理な十字架での苦しみに連なって行くのだが、マタイは、なぜこの方は、そんな(常識外れの)人生を歩まれたのか、そしてその方に出会った私たちにとって、何がもたらされたのか、という二重の意味を、まずここで解き明かそうとするのである。
ここにたくさんの地名が列挙されている、「ゼブルン、ナフタリ」、これは「ガリラヤ」という地名の古い呼称である。そしていわゆるガリラヤ湖周辺の主要な町のひとつ「カファルナウム」、「(そこに)住まわれた」と記されるように、主イエスの活動を支えるコアなグループ、「推しの子たち」の集まりがそこにはあって、宣教の拠点、足場となったのではないかと聖書学者は推測する。なぜ「キリスト」は、そこで、ガリラヤ湖の周辺地域で、もっと言えば、なぜそんな呪われた場所で、宣教なさったのか、これは初代教会が人々から問われた問いだったのである。マタイはこの問いに答えることで、主イエスの宣教の意味を明らかにしようとするのである。
旧約のイザヤ書8章23節ではこう語られている。「ゼブルンの地、ナフタリの地は、辱めを受けた。即ち、ガリラヤは異邦人の地と呼ばれるようになった」。預言者イザヤの活動した前8世紀後半、南北に分裂した全イスラエル王国の片割れ、北王国が、アッシリアによって滅ぼされ、主だった住民はアッシリアに捕囚として連れ去られた。住民を根扱ぎにしたその代償に、大帝国は滅ぼした地に、多くの外国人を入植させたのである。民族的、文化的に、ガリラヤは様々な背景の人々が入り乱れて暮らす地域となった。
アメリカは人種のるつぼと言われる。しかしそれは正確ではない。高温で金属を溶かす「るつぼ」なら個性的なもの、独自なものはみなひとつに溶け合うことになる。しかし人間の個性や生活様式は、簡単には「溶け合う」などということはない。「人種のサラダボール」、さらには「モザイク」という表現も近頃は用いられるが、この時代のガリラヤは、正にそんな感じだったろう。おまけにカファルナウムには、ローマの軍団の駐屯地も置かれていた。ローマ人たちは、その町の近くに温泉の泉源があるのを発見し、早速、嬉々としてテルマエ・ロマエ開発を行ったが、昔からにそこに住む人たちは、温泉にはあまり魅力は感じなかったらしい。
ユダヤの保守的な人々は、やはり外国人が多く居住し、外国との境界域に位置するガリラヤを、「辺境」として、即ち、穢れや呪いを受けた暗闇の地域として嫌悪感あるいは憐憫をもって受け止めていた。そういう心情から出た言葉が、なぜ「メシア(救い主)」ともあろう者が、そんな辺境の地、見捨てられた地で活動するのか、という訳である。マタイはこれに預言者イザヤのみ言葉をもって、答える。このみ言葉が、メシアをガリラヤへと送り出し、ついに十字架への道に導くのであると。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」は「死の陰の地」であり、そこには「暗闇に住む民」の地であるという。これは当時の南王国ユダに住む人々が、崩壊した北王国を評した言葉だろう。イザヤもエルサレム神殿の祭司であり、中央の宗教的エリートのひとりではあるが。かつては自分たちとひとつの国を形づくっていたガリラヤを、「死の陰の地」と呼び、そこに生きる同胞に対して「暗闇に住む民」と呼ぶのである。すぐ目と鼻の先ではないにせよ、余りに冷たく突き放したような言いぐさではないか。明るくともし火が点され、たくさんの人々が行き交う神殿のあるエルサレムと、片や滅ぼされて栄光の欠片も失っている北王国、昔は一つであったが、今は別々の、異なる2つの世界が広がっている。
阪神淡路大震災は、兵庫県の淡路島北部を震源とする活断層型地震であり、淡路島から神戸の背後に屹立する六甲山に伸びる活断層のずれによって、東西方向の圧縮力が加わり、断層が横ずれを起こしたことが原因とされている。だから活断層に沿って大規模な倒壊が起った。神戸の町から鉄道でほんの30分程の大阪の町は活断層から外れていたため、大地震の後も、ライフラインは素より会社や商店の営業等、以前と変わりない日常の生活が続いていた。まるで天と地、生と死のようなコントラスト、正反対の2つの世界の有様がそこに拡がっていたのである。一方は地震などあったか、という如く電気が煌々と点り、にぎやかに人が行き交う巨大な町、片や同じような大都会で、今やがれきとなった町、被災した人々がたき火を囲む、冬の寒さをしのぐためドラム缶に倒壊した家屋の柱や壁を燃やして暖を取っているところ、そんな2つの世界の光景も今日のみ言葉から、想像される。
しかし「死の陰の地」また「暗闇に住む民」、これは、戦争や災害によって、悲惨な廃墟のようになった歴史的、地理上のどこかの場所を指す言葉なのではない。異邦の人々が、外国人が多く住んでいる町のことでも、偶像がひしめき退廃し、道徳的に堕落をした都のことでも、辺境のおよそ人気のない田舎のことでもない。そうではなく、悔い改めを叫び、生の方向転換を叫ぶバプテスマのヨハネを、邪魔者として捕らえて、獄に投げ込み、真実を覆い隠して、素知らぬ顔をして、すましている者たちが住む所はみな、「暗黒に住む民、死の陰の地」なのである。私たちもまた、「ひとり悔い改めたところで」と嘯いて、方向転換を軽んじるなら、暗黒の民、死の陰の地に住む者なのである。
しかしイザヤの語ったみ言葉は、決して大いなる裁きで終わる預言ではない。「暗黒に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込む」のである。私たちは暗闇の中で、手探りでうごめき、ただどちらに行けばいいのか、戸惑い立ち往生し、身もだえしているばかりで、見捨てられるのではない、というのである。大きな光がそこに照り、光が射し込む。この古の預言の言葉通り、キリストは、ナザレのイエスは、ローマ軍が駐屯するカファルナウムで語り、そのみわざを行われるのである。
初めに紹介した新聞記事の続きを少し。「神戸の詩人、安水稔和さんにこんな一編がある。〈一本の木の半分が焼け焦げて/焼け焦げた街を見ている。/同じ木の半分は焼け残って/倒壊した街を見ている。/焦げた黒い葉叢(むら)をこすりあわせて/生々しいみどりの葉叢をふるわせて。/激しくいのちのにおう街に/動かず立っている〉。あの災厄の中で、地に根を張った街路樹は猛火を防ぎ、倒れる家屋や電柱を一身に受けた。木々に囲まれた公園には被災者がテントを張った。人が時間をかけて育てた何でもない自然が再び立ち上がる支えになった。『災害に強いまちづくり』が叫ばれるいま、そんな記憶をふと思い返す」。
神は、がれきになった地、死の陰の地を、放棄し打ち捨てられるのではない。そこにご自身のひとり子、救い主をお与えになった。その御子は、十字架の道をたどり、十字架に付けられ、死んで葬られた。「焦げた黒い葉叢(むら)をこすりあわせて/生々しいみどりの葉叢をふるわせて/激しくいのちのにおう」、まさにまことに人、まことの神が「死の陰の地」へと歩まれ、「暗闇に住む人々」のために生きられた。主イエスによって、そこによみがえりの光が点されるのである。