祈祷会・聖書の学び エゼキエル書36章22~28節

まだドイツが東西に分かれていた時代、古い友人のひとりがベルリンに留学していた。校舎に繋がるように寄宿舎があり、ひとつドアを開ければ学校という塩梅で、気晴らしに行く時間、空間の余裕すらなく、さながら勉学三昧の毎日を過ごしたそうである。そういう環境の下ではやはりストレスが嵩じる。最初の数カ月の間、まだ現地の生活にもなじめず、とりわけ言葉の壁に悩まされる日々が続き、留学を止めて帰国することばかり考えるようになったという。そういう中、その年のクリスマスを迎えたという。

ドイツの冬は寒く、厳しい。冬至の頃の12月ともなれば、一日の日照時間は短く、陰鬱な日々が続く。クリスマスと言えど、どこかに遊びに行くあてもなく休暇を迎える。所在なく、商店もみなクリスマス休業中で、仕方なしに教会のクリスマス礼拝に出かけたというのである。礼拝に出ても、やはり「帰国しようか」とばかり考えている。その内に礼拝が始まり、オルガンの奏楽が礼拝堂に響いてきた。かの地では、オルガニストは皆で唱和する当日の讃美歌を自分でアレンジして、即興で前奏曲として演奏するのが習わしであるが、それが次第になつかしい、聞き覚えのあるメロディとなって聴こえてきた。“O du fröhliche”「この歌なら歌える」、うれしくなって、思わず口から日本語の歌詞が発せられた、「いざ歌え、いざ祝え、このめぐみのとき!」。ドイツ語に交じって、大声で日本語の讃美歌が響く、現地の人々は、ドイツ語に交じって歌われる外国の言葉に、最初は当惑しつつも、うれしそうな笑顔を向けてくれたという。ふと気づくと、自分と同じような留学生たちが、それぞれ自分のお国言葉でその讃美歌を歌っている。礼拝が一挙に世界に広がったかのように感じられたという。

その時から、悩みの種だった語学に対する抵抗感が薄らいだ、というのである。成程、世界にはいろいろな言葉がある。確かに異言語で人間は苦労をすることも多いが、結局、言葉は「世界語」であって、さまざまな国の言葉はその「方言」みたいなものではないか、という感覚を持つことができた、というのである。

今日のエゼキエル書の聖書個所に、「石の心、肉の心」という表現が語られている。普通「石の心」と言えば、「かたくなな心」即ち、冷たく、愛がない、無関心で無慈悲な心情を連想させる。他方、「肉の心」とは、「やわらかな心」、即ち、血の通った、温かで、愛があふれ、他者の悲しみや苦しみに共感する心情を著わしているように思える。しかし、これらの節では、「心」という用語がキーワードとなっている。この単語を正確に訳せば、「心臓(レーブ)」を指す言葉である。もちろん「臓器」そのものではなく、「心」と訳されているように、預言者は比喩的な意味で用いていることは言うまでもない。

「腹黒い」「腹が立つ」「腹が据わる」等など、この国においても、「腹」にまつわる表現は数多い。それは「腹」こそ思考の座と考えられていた証左である。そのようにヘブライ語の「レーブ」もまた、第一義的意味は、「感情」や「情緒」ではなく、「理性」あるいは「理解力」のことである。つまり旧約において、「心の働き」とは、「理解する」こと、「悟る」ことなのである。確かに、日本語の「心」という言葉は、「知性、感情、意志」等、すべての精神の働きを意味しているが、どちらかといえば、「感情」に重きが置かれるように思われる。しかしヘブル語の「レーブ」は、むしろ「知性」と「意志」の働きと強くかかわるのである。「心」が情緒ではなく、理解という色彩が強いのならば、「石の心」とは、理解力が鈍く、悟ることのない、偏狭で頑なな認識を意味しており、「肉の心」とは、血が通って生き生きした発想力、柔らかな思考力で、広々とした視野を持っている、という意味になるだろう。

預言者エゼキエルは。バビロン捕囚期の預言者である。紀元前587年に聖書の国、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅亡し、王国の主だった人々はバビロンに虜囚として連行され、異国での生活を余儀なくされる。いわゆる「バビロン捕囚」である。この期間に、バビロンで暮らすユダの人々を励まし支えた預言者がエゼキエルであった。彼は捕囚民が「石の心」であることを嘆くが、その「かたくなさ」とは何を指すのであろうか。捕囚された人々は、祖国を失い、神殿を喪失したことは、自分たちの罪ゆえであることを深く自覚していた。その報いとしての「バビロン捕囚」であり、もはや自分たちは、神からいたく罰せられ、放って置かれていると感じたのである。もはや神は我々を顧みられることなく、異教の地に捨てられ、まったく無視されているのだと。「もはや神は自分たちにまったく無関心である」。

しかしこれこそ彼らの「偏狭さ」そのものであった。「神は聖である」と語られる。「聖」とはおおざっぱに言えば「区別」という意味である。「神は天におられ、人は地に住む」ように、人間と神は同等なものではなく、神は人間を超越される存在である。すると「聖」とは厳かで、いかめしく、近寄りがたいという印象となり、「さわらぬ神にたたりなし」という観念をも生じることになる。確かに、人間は自分の力によって、いかなる努力や精進によっても、神に近づくことはできないであろう。だから神とは「無関係」とは言えない。人間の側からすれば、そこに至る道は閉ざされているかもしれないが、神の側からの通路はどうなのか。

神の子、主イエス・キリストは、「肉となった神の言葉」と言われる。人間が「石の心」ゆえに、神は私たちのために、ひとり子をこの世に遣わされたのである。主イエスは、あたたかな肉となって私たちの間に生き、私たちの間に歩まれ、ついに私たちの救いのために、十字架に付けられ、血を流されたのである。ここに神のみ腕が、私たちの大きく伸ばされて、新しいきずなが形作られたのである。

人間は、自分で自分の世界を狭めて、せっせと壁を作ることに勤しんでいるように見える。それで安心、安全が得られるとばかりに。友人が慣れない外国語を用いての生活に耐えきれず、いわばベルリンの壁のように、自分で自分の心に壁を作り、その中に閉じこもってしまうような状態になっていたのである。その壁を「讃美歌」が壊した、というのである。後に1989年にベルリンの町を分断する壁が壊された報に接した時、その友人は、自分のかつての心の壁について、思いを深くしたと述懐している。いかなる「壁」も絶対でも、永遠でもないのである。