祈祷会・聖書の学び 雅歌3章1~11節

子どもがまだ小さい時、おずおずと尋ねた、「おかあさんは、ちいさいころに、たいせつなものをなくしたことがある?」。母親はすぐに感づいて、子どもに問う、「(# ゚Д゚)なにをなくしたの!」。昨日、友達と遊んでいる内にどこかで、家の鍵を落としてなくしてしまったとのこと。自宅の玄関の鍵の紛失は、ことによると物騒なことにもつながりかねない。丁度、休みの日だったので、「さがしにいこう」と、記憶に頼って、その時にたどった行程を、子どもと一緒に歩いてみた。近所の神社の境内で遊んだとのこと。池でザリガニ釣りをして、草むらで虫を探索し、大木の幹に木登りブランコをし、社殿の裏山で鬼ごっこをして、と子どもの行動の多彩さ、エネルギッシュさ、活発さに舌を巻いた。憶えている場所をくまなく探したが、失くした物は見つからない。その時にふと、神社の毎朝の風景が思い出された。いつも朝一番に、神主さんが箒で境内を隈なく掃いているので、もしかしたら見つけて拾ってくれているかもしれないと、社務所に問い合わせると、「保管してあります」とのこと、子どもは今までにないくらいの満面の笑みで、神主さんに「ありがとう」を言い、めでたく一件落着となった次第であるが、私は「捨てる神あれば、拾う神あり」などという昔の諺を思い起して、複雑な気持ちになった憶えがある。

皆さんは、「失せ物」をした時に、どうしているだろうか。落ち着かないから、部屋中をひっくり返す、という人もあろう。「おまじない」を唱える、という方法を取る人もあるだろう(効くかどうかはともかくとして)。昔、流行った歌に「探し物は何ですか、見つけにくいものですか。捜すのをやめた時、見つかる時もよくある話で」(井上陽水『夢の中へ』)という一節があるが、結構そういうものかもしれない。なんでこんなところにあるのか、と思わぬところに忘れられていることがあるものだ。確かに自分で置き忘れたのに違いはないのだが。

「雅歌」を取り上げる。この美しい章句に散りばめられた小さな詩集の背景、編纂の意図や目的等、詳細は今なお不明である。この詩を読んでいると、心に鮮やかな風景が描かれるようで、まるで巧みな絵画を鑑賞している気持にさせられる。但し、通常の絵画は、それを見る者にとって、「完成品」としての作品を眺めることに尽きるのだが、雅歌の場合は、言葉という絵の具を徐々にちりばめて、さまざまな色彩が重ねられて、重複的に塗り重ねられていくそのプロセスすらも、楽しむことができる。まだ動画、映画をはじめとするいかなる映像媒体もないような時代に、同様な効果を「言葉」だけを頼りに心に描こうとした古代の文学者の力量に、脱帽する

この国の詩人の泰斗、萩原朔太郎は、若い頃、キリスト者の叔父に連れられて、教会の礼拝に度々参加しており、記念館には、彼が日頃使っていた聖書が残されているが、この「雅歌」にはたくさんの書き込みがなされていて、本文が読めないくらいである。余程、将来の詩人の魂を揺り動かしたようなのだ。この一事を取ってみても、「雅歌」の持つ魅力の一端を知ることができよう。

「雅歌」の生活の座についての説明で、聖書の世界、その周辺世界で、婚宴の際に用いられた「祝歌」である、という説には、一定の説得力があるだろう。もちろん現今の文言をそのまま用いたのではなかったにせよ、婚宴に花を添える趣向に満ち満ちていると言える。それを意識して、新共同訳聖書には、それぞれの文章のまとまりを歌う歌い手が、明記されている。「娘(花嫁)」「若者(花婿)」{娘たち(花嫁の友人一同)}「合唱(その他の参列者)」、これらの者が、互いに歌い交わす風景は、何と結婚の引き出物にふさわしいことか。婚宴に招かれた客人たちの心を満たし、暖める縁となったことであろう。

雅歌に何らかのストーリー性を認めて、物語を再構成しようとする向きがある。今日の個所では、冒頭の1~3節で、愛する者を見失い、探し求めさまよう娘の姿が、語られている。他の個所でも同様なモティーフの章句が連ねられ、歌われている。残念ながら、首尾一貫した統一性のある物語としては読めないのであるが、無理やりストーリー性を論う必要もないのではないか。

かつて、これが始まると銭湯の湯船から人が消えたと評されたドラマがあった。ひとたび出会い、今一度の再開を願いつつも、ほんの少しの行き違い、すれ違いでそれがかなわず、悶々と物語は堂々巡りを繰り返すのであるが、丁度、そのようなドラマの技巧や効果を狙っているのかもしれない。やはり喪失、不安、揺れ動きの中に、人の心は揺蕩い躍るのであろう。そして「失せ物」とは、思ってもみない時、思いがけない場所で、めぐりあうことになるのである。

「彼ら(夜警)に別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします」。5章7節では、再び「夜警」についての言及がなされるが、そこではこの世の治安(秩序)を守ってくれるはずの彼らから、ひどい仕打ち、暴力を受けることが語られる。つまり大切なものを失う体験、喪失体験に、「夜警」即ち「世の秩序」は役に立たないばかりか、却って苦しみを生むということなのだろう。しかし「喪失」は、失われたままひとり放って置かれることではない。思ってもみない時と場所で、回復の道が示されるのである。

主イエスの譬話の「放蕩息子」の物語は、家から出て行った息子が、この世の秩序の中で財産を失い、そこから父の家に帰還する物語である。子どもは、「喪失」の体験によって初めて、自分が失ったものが、「財産」ではなく、「父の家」だったことを知り、それがどれ程大切なものだったかを悟るのである。「父の家」とは、単に「生家」や「肉親の家」ではなく、自分をこの世に生まれさせ、生命の息を吹き込んだ「魂の故郷」とも言い換えられる場所のことだろう。それを再び見出したなら、人は、その大切なものを、「母の部屋」、自分の魂の奥底に据えて、それを暖めつつ、温められつつ、人生を歩んでいくだろう。

「家の鍵を失くす」という喪失体験の裏側で、それを見つけるために、多くの人の手が働いていること、ひとりの人生には、多くの人々の支えがあって、成り立っていること、さらに「喪失」がそのままにされず、回復への道を備えてくださる方がおられることを、子どもながらに知ったのではあるまいか。