「だれの名によって」使徒言行録4章5~12節

皆さんには何人くらいの知人がいるだろうか。顔を知り、名前を覚え、ある程度、親しく会話したことのある人物。ある統計によると、現代人は、平均44人程の知人を持っているそうである。大体、小中高の一クラスの人数、というところが興味深い。

それでは、「友達の友達は、みな友達だ」の方式で、自分の友達をつてに、さらにその友達を紹介してもらうとすると、何人目くらいで、地球の裏側に住む人にまでたどり着くか。答えは「6人目」だそうである。簡単な計算で説明すると、今、地球には70億人の人間が住むと言われる。その一人ひとりに44人の知り合いがいるなら、その数字を6回掛け算すると、優に70億を超えるのである。

人と人とが繋がるのには、やはり「名前」が欠かせない。名前を知らなければ、目の前の相手に、呼びかけることができない。つまりは関係を持てないのである。創世記で最初の人アダムのしょっぱなの仕事は、エデンの園に住んでいる生きとし生けるものに、ひとつづつ名前を付けることであった。しかし残念ながらふさわしい助け手は居なかったという。ふさわしい助け手とは、向かい合う存在、つまりその名に見合った、アダムの名にふさわしい、という意味である。実は名前が問題にされているのである。

年を取ると忘れっぽくなる。特に人の名前を忘れてしまう。皆さんは、目の前の相手の名前を忘れた時にどうするか。田中角栄方式なるものがあるらしい。かのコンピュータ付きブルドーザーと称された宰相である。彼は相手の名前を忘れると、「君の名前は何だったか」と聞いたそうだ。相手が幾分気を悪くして、「田中です」と名乗る。するとすかさず「田中君、君の苗字は分かっている、君の下の名前を教えてくれ」とやるのだそうだ。堂々と聞き出すことができるばかりでなく、わざわざ名前を聞かれたことで、相手はかえって特別に気にしてもらえていると、うれしくなるのだそうだ。彼の人脈はこうして作られた、かどうかは、不明である。

今日の聖書個所、「ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける」と題されている。ユダヤの最高法院、即ち神殿附属の、ユダヤで最も権威ある場所で、祭司長や議員、長老、律法学者というユダヤで最も高位にある人々の前に立たされた、というのである。ユダヤの国で最も高貴な場所は、神殿の最も奥にある、神のみ座である至聖所であるが、それは格別にして、最高法院サンヘドリンにまさる場所はない。実を言うと、主イエスが捕らえられ、十字架に付けられる前の晩、祭司長や総督ピラトたちの取り調べを受けるが、これは「暴虐な裁き」、つまり非公式の、闇から闇に葬られる審判であった。ペトロ達は、主イエスも足を踏み入れることのなかった場所に、今、立っている、立たされているのである。

「信じる」ということを、マルティン・ルターは、「立たされる」と理解した。自分がどこに立っているかを、はっきりさせること、どこに足を置いて、生きているかを言い表すことと理解した。それを隠して、主イエスを信じることはできない。また、足を二つ所において、立つこともできない。そして神は私たちを、思ってもみない場所に立たせるのである。普通ならおじけづき、混乱するところだろう。厳めしく厳かで、重苦しく、人を押しつぶすような重圧感。皆さんはそういう雰囲気は好きだろうか。そこに居合わせたユダヤの偉い人々は、彼らの姿を見て不思議に思った、驚いたという。「無学のただの人」文字通りには「文字が書けない人」つまり教育を受けていない人、という意味である。その彼らが堂々としている、落ち着いている。安心しているのである。

実にその場に不似合いな、不釣り合いな風情であったのだろう。最初の教会の実情が、こういう言葉から伺い知ることができるかもしれない。この世のもの、この世の事柄からすると不釣り合い、不似合いなのだが、変わっているのだが、あるがままに安らいでいる。初代教会の姿が髣髴とされる。今も教会はどことなくそういう所なのかもしれない。しかし、これはどこから来るのか、よく考えねばならない。

ペトロとヨハネは尋問を受ける。7節「お前たちは何の権威によって、誰の名によって、こんなことをしているのか」。「権威」という用語と、「名前」という用語が、対置されている。「名前」に「権威」がある。「権威」とは「名前」なのだ。名前といっても、そんじょそこらの人間の名前ではいけない。由緒正しく、この世の権力を掌握し、多くの人々を束ね、命令一下、自由に動かすことのできる人物、あるいは家や組織、それが「名前」に表されるのである。だから有名な名前には、力が付与されているのである。

ドラマ等で「お前、どこの組のもんや」というセリフが語られる。これは古代人の価値観をよく表す言葉なのである。ひとり一人の存在や価値などどうでもいい。問題は、お前が誰に属しているか、誰にくっついているか、その方が重要なのである。自分という存在の意味以上に、自分が属している国とか会社とかの集団、組織がより価値がある、大切だと信じるなら、その人は古代人的なのである。古代では誰の一味であるかで、目の前の当人の力量、優劣が計られるのである。それ相応の有力なパトロン、後ろ盾があるなら、周囲の人々に大きな顔ができる。だから許そう、認めようという具合である。この使徒言行録中に、アンティオキア教会で、主イエスを信じる者たちが「クリスチャン」と呼ばれるようになった、と伝えられているが、この呼び名は「キリスト組の組員」「キリスト党員」という、半ば「あやしい、胡散臭い人々」「不可解な人」というニュアンスが込められているのである。

「だれの名、だれの権威によって」と問われたペトロは、大胆に答える「この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人、イエス・キリストの名だ」。この言い方は痛快である。この人は良くなって、あなた方の前に立つ。「論より証拠」、今、あなたがたの前に立つ、この人を見たらよい。以前には美しの門、その前に座って物乞いをしていた人だ、その人が今、ここに立っている。この人を前にして、目の当たりにして、この人の生命を回復させたのは、何か言ってみよ。莫大なあなた方の金銀が、この人を立ち上がらせたのか。あなた方の強大な権力が、この人を歩ませたのか。あなたがたの祈りが、この人の命を回復させたのか。あなた方の名誉や権威は、この人を救うことができるのか。

名前を呼ぶことは、その名前の主に、力や庇護を求めることである。自分の信じる神の名を呼ぶこと、それが「信仰」の形である。だから声高に、繰り返し、精一杯に、喚くほどに声を上げれば、神は必ずや耳を傾けて下さると信じたのである。ところが信仰の熱心さは、度が過ぎれば「熱狂」に変わり、自己陶酔に陥る。それは神の自由な御心を、人間が支配しようとすることである。熱心に神の名を呼ぶことは、危険と紙一重である。だから、十戒では、「神の名をみだりに唱えることなかれ」と神の名を安易に呼び、唱えることを禁じたのである。そのおかげでイスラエルでは、いつしか人々が神の名を忘れてしまったというまじめだが滑稽なことが起こってしまった。聖書の信仰では、まことの神の名を呼ぶことはできないのである。人間の方からは、まことの神の名を呼ぶことはできない。田中角栄方式は使えない。

人間の側からは無理であっても、主イエスの名を私たちは与えられている。そして主イエスは私たちが呼びかける前に、ご自分の方から、私たちに呼びかけてくださるのである。ペトロもヨハネも、主イエスがまず先に呼びかけ、弟子となった。美しの門に座っていた男も、ペトロたちに、呼びかけられて、主イエスを知った。誰も自分から、神に呼びかけることはできない。しかし心配ない、主イエスは私たちが呼びかける前に、あなたの名を呼んで、招いてくださるのである。

八木重吉の詩にこうある「おんちちうえさま おんちちうえさま ととなうるなり」。人間が神に呼び掛ける、その言葉は、せいぜいがこのひと言である。私たちはまことの神の名を知らないのである。本当は呼びかける言葉すら持たないのが、人間なのである。しかしそのひとり子、主イエスが共に居られ、私たちに呼びかけて下さる。それだけが私たちの力、落ち着き、安心である。